判例速報
※この記事は、2006-06-16にメール配信されたものと同じ記事です。Medsafe会員各位 今回は,骨髄小脳変性症(オリーブ橋小脳萎縮症)の患者が東 京都の在宅難病患者緊急一時入院制度を利用して入院をしていた 際,肺炎に罹患し,その後死亡した場合において,被告病院の医 師に肺炎罹患を防止すべき過失や痰の吸引を十分に行わなかった 過失等を否定した事案です。 ■年月日・裁判所 H18. 2. 8 東京地方裁判所 平成15年(ワ)第24123号 損害賠償請求事件 ■当事者 原告側:原告Aは,亡D(昭和11年生まれの女性。入院当時, 64歳)の夫。原告B及び同Cは,いずれもDの子。 被告側:被告は,東京都杉並区において,内科,循環器科,消化 器科等の診療科目を有するE病院を設置経営。 ■診療経過 ・Dは,平成2年ころから体調を崩すようになり,平成3年ころ, 脊髄小脳変性症(オリーブ橋小脳萎縮症)と診断され,平成7年 からは人工呼吸装置を用いることとなった。また,Dについては, 病状が進行したため,G大学神経内科において,気管切開をして 呼吸が確保された。 ・Dは,東京都から,難病医療等助成対象疾患の指定を受けた。 ・原告らは,普段,24時間体制でDの介護を行っていたところ, 一定の休息をとるため,難病患者の家族を支援することを目的と する東京都の在宅難病患者緊急一時入院制度を利用して,Dを被 告病院に何度も入院させていた。 ・平成12年12月19日,かかりつけ医であったH医師にDの 病状確認を診察してもらったところ,Dの病状が安定しており, 被告病院へ入院しても問題がないとの診断。 ・12月20日,Dの介護に当たる原告らの疲労回復を目的とし て,在宅難病患者緊急一時入院制度を利用し,被告病院に13回 目の入院。原告ら家族は,入院する前,Dに抗生剤を投与する時 は,事前に原告らの同意を得てから投与することを強い口調で被 告病院側に申し入れ,被告病院もその旨を約した。 ・12月21日,10時に気管吸引及び口腔吸引を行ったところ, 白色のサラサラ痰が多量に引けた 。15時,ハーバードと呼ばれ る被告病院内の入浴施設に入浴。その際に,白色の粘稠性ないし サラサラの痰が鼻腔や気管切開部分から吸引された。また,同日 20時の吸引の際には,白色の痰が多量に鼻腔,口腔及び気管切 開部分から吸引された。その後,同日22時には,気管吸引及び 口腔吸引により白色サラサラ痰が中等量吸引されたほか,Dの呼 吸数が1分当たり12回へと上昇していることが確認された。 ・12月23日5時,鼻腔より黒茶色のものが流出しており,診 療録上,「右鼻腔より黒茶色のもの流出している。嘔吐か?」と の記載がある 。10時には,黒色粒状混入痰が気管鼻腔より吸引 された。この際のDの体温は36度,酸素飽和度は90%であっ て,肺に雑音が軽度に見られた。そこで,F医師は,Dについて 吸引を30分ないし1時間ごとに行うことに決めた。14時には, Dの呼吸が頻回となり,肺に雑音が見られた。他にも,鼻腔及び 気管から薄茶色の痰が多量に引け,その痰には黒色の粒が見られ た。また,軽度の末梢冷感があった。16時20分,看護師がD のいる病室を訪室すると,Dの顔面にチアノーゼが生じたため, 看護師は,F医師を呼ぶよう依頼したが,Dは自発呼吸のない状 態となり,吸引したところ,鼻と気管から薄茶色の痰が中等量な いし多量に引けた。その後,F医師が駆けつけ,Dに対して救急 蘇生を施行し,さらに点滴ルートの確保を3人の医師(F医師, I医師,J医師)が試みたが,成功せず,右手背皮静脈からかろ うじて点滴ルートを確保することができた。その後,17時まで の間に嘔吐反射があり,口腔内に嘔吐物の流出が数回見られ,嘔 吐物の色は薄茶色ないし茶黒色であった。17時ころ,原告らが 被告病院に到着したため,F医師は,原告らに対し,Dが低酸素 脳症になっている可能性が高いと説明した上,抗生剤の使用の同 意を得て,抗生剤チエナムの投与を開始した。 ・これ以降,Dは,死亡に至るまで植物状態であって,意識が回 復することはなかった。 ・平成12年12月24日,Dについて胸部X線検査を施行した ところ,全体的に胸水があるように見え,しかも右肺が前回のX 線写真と比べて陰影が濃くなっている模様であるとの所見を得た ことから,F医師は,これを家族に説明。 ・その後,Dに対しては,定期的に胸部X線検査を実施したほか, 腹部エコー検査等を実施し,経過を観察していたところ,平成1 3年1月29日には,同月23日に撮影した胸部X線写真や血液 検査の結果,喀痰の状態等を検討し,肺炎が治癒したと考えられ たことから,F医師は,Dに対する抗生物質の投与を中止して経 過を見ることとした。 ・平成13年12月19日,Dについて肝膿瘍の疑いがあり,敗 血症が既に発症しているとの所見がもたれた。 ・平成14年1月22日死亡。 ■ Dの肺炎罹患を防止しなかった過失の有無について 「原告らは,平成12年12月21日の時点において被告病院の 医師らがDに対して口腔ケアの実施や体位の工夫等,嚥下性肺炎 の罹患防止のための処置を実施する義務があったにもかかわらず, これを怠り,何ら措置をしなかった過失により,Dが嚥下性肺炎 に罹患したと主張する」 「しかしながら・・・,被告病院においては,Dに対して口腔ケ アや体位交換がされていたものであるから,原告らの主張する注 意義務を果たしたものということができるのであって,被告病院 に,Dの肺炎罹患を防止しなかった過失は認められない」 ■ Dに発症した肺炎について適切な対処を怠った過失の有無について 「・・・平成12年12月23日午前,すなわち,入院から48 時間経過時以降にDが肺炎に罹患していることが確認されたもの であるところ・・・,肺炎を治療する際には,まずはじめにエン ピリック治療を行うべきであって,しかも院内肺炎の場合には, 当初から広域で強力な抗菌薬を十分量,短期間投与し,かつ施設 における抗菌薬の選択をできるだけ偏りのない多様なものとする べき」 「しかしながら・・・,Dが重症肺炎であるとは認められないし, 重症肺炎でなければ直ちに抗生物質の投与をする必要性はないの であるから ,被告病院が同日午前の時点においてエンピリック治 療を始めるべき義務は認められないというべきであるし・・・, 原告らが被告病院に対して抗生物質の使用については緊急の場合 を除いては家族の了承を必要とする旨の申入れをし,被告病院も この申し入れを承諾した経緯があり,同日17時ころに原告らが 被告病院に到着するまで原告らとの連絡は取れなかったのである から,この点においても被告病院にエンピリック治療を同日午前 の時点で始めるべき義務はなかったというべき」 「この点に関して,原告らは,平成12年12月23日の時点に おいて肺炎の病原菌の特定をするべく血液培養検査や喀痰培養検 査等を実施すべき義務が被告病院にあったと主張する。しかし・ ・・,肺炎の治療においてはまずエンピリック治療がされるべき ものであることからすれば,病原菌の特定が必要であるというこ とはできるが,仮に同日培養検査を実施したとしても結果が判明 するのは病原菌の特定が同月25日,薬剤感受性の判明は同月2 6日となり,本件における治療経過に何ら影響を及ぼさず,これ を同日の時点において実施すべきであるとまでいうことはできな いし,同日は祝日で被告病院の態勢からして上記検査が実施でき ない状態であったから ,これらを実施しなかったのもやむを得な かったものと認められ,原告らの主張は採用できない」 ■ Dの人工呼吸器の管理及び心電図のモニタリングを怠った過失 の有無について 「原告らは,Dが院内肺炎を起こす可能性が高く,しかも肺炎が 易感染性宿主にとっては致命的な影響を及ぼす重大な呼吸器疾患 であることからすれば,人工呼吸器にアラーム機能を備え,心電 図をモニタリングすべき義務があったと主張する」 「しかしながら,人工呼吸器にはアラーム機能が付いていたので あるし(弁論の全趣旨),単に重大な呼吸器疾患であるとの一事 を以て心電図をモニタリングすべきであるとの医学的知見は見当 たらず,Dに心電計を装着すべき症状があったとも認められない から,原告らの主張は採用できず,被告病院に原告らが主張した 注意義務は認められない」 ■ Dの痰の吸引を十分に行わなかった過失の有無について 「・・・Dについて気管吸引した際に吸引された痰が次第に粘稠 性を増し,かつ色も白色から黄色,黒色へと変化し,量も増加す る傾向にあって・・・,チューブについては定期的に吸引する必 要があることからすれば,被告病院としては,Dの痰が粘稠性を 増し,量も増加する傾向にあったことに対応して,呼吸確保のた めにDの気管吸引の回数を増加させなければならなかったものと 認められる」 「他方・・・,被告病院の看護師は,Dについては,平成12年 12月20日の入院当初は2時間に1回,同月22日10時以降 は1時間に1回,同月23日10時以降は30分ないし1時間に 1回の割合で痰の吸引を行い,かつ,体位交換についても2時間 おきに行っていたものと認められる」 「以上に照らせば,被告病院には・・・注意義務が課せられてい たものの・・・,Dについて気管吸引を頻回に行う必要性を認識 し,実際にこれを施行しており,気管吸引を30分ないし1時間 ごとに実施することを決定する前や同日14時の時点での痰の量 について「多量」「かなり」といった表現が用いられているのに 対し,Dの急変前の最後の吸引となった15時30分の時点では, 痰の量は中等量に減少しているのであるから,この時点でそれま でより頻回に吸引を実施すべき状況が生じていたとみることはで きず,上記決定に従って50分後の16時20分まで吸引を行わ なかったことに問題があったとは認め難い。これらに鑑みれば, 被告病院として必要な措置を行ったというべきであり,かつ,被 告病院が決定した以上に頻回に気管吸引を行うべきことを基礎づ ける事情は証拠上見当たらないから,被告病院に過失はないとい うべき」 ■ 被告病院におけるカフ付きカニューレの使用方法の適否について 「原告らは,Dが嘔吐しても嘔吐物等が気管内に流入することを 防止するため,被告病院にはカフ圧を適切に保つべき義務がある のに,これを怠り,カフ圧を適正に保たなかった過失があると主 張する」 「しかしながら,カフを用いる際にはカフ内圧を適正に保つ必要 があることは認められるものの,他方で「カフへの過剰な空気の 注入は気管損傷の原因となる」とされており ,カフと気道とを強 く接触させると,接触している部分の気管の粘膜にびらんや潰瘍, 壊死が生じかねないため,カフの圧は一定以上には上げないよう にしているのであって ,被告病院にカフ圧を適正に保たなかった 過失があるとは認められない」 「この点に関して,原告らは,嘔吐物が気管内に流入したことを 仮定し,仮に嘔吐物が気管内に流入したことからしてカフ圧が適 切でなかったと主張するものである。しかし,カフは誤飲を防止 するために設けられているわけではなく気管カニューレが気管切 開口から脱落することを防止し,鼻咽頭を介さず気管カニューレ を介して有効な喚気がなされるよう肺の陰圧を保つことを目的と したもので,上記のようにカフに過剰な空気の注入をすることが 禁止されていることからすれば,もともとカフのみによっては気 管内に誤飲が生ずることを完全に防止することはできないのであ るから,嘔吐物の流入という事実のみを以てカフ圧が適切でなかっ たと推認することはできないのであって,原告らの主張は採用で きない」 ■ まとめ 「以上によれば,原告らの主張する過失はいずれも認められない から,原告らの主張する過失行為と結果(Dが植物状態となった こと及びDが死亡したこと)との間の因果関係の有無及び損害額 について判断するまでもなく,被告に損害賠償義務が発生しない ことは明らか」 「ところで・・・,原告らは,平成17年10月12日付の第8 準備書面において,仮に吐瀉物による窒息が急変の原因であると しても,それは当日朝に取りやめた経管栄養を昼に再開したこと によるものであるから,被告の責任は免れないと指摘するに至っ た」 「しかし・・・,同日昼間での時点ではDが嘔吐したか否かは明 確ではなかったし,Dについては点滴ルートの確保が困難な状況 があったことからすると,栄養補給のためと脱水による痰の粘稠 化を避けるために経管栄養を再開することはやむを得なかったも のと認められる。その上,経管栄養の実施と急変時との時間的関 係からして,経管栄養で注入したものが急変時に嘔吐されたか否 かは明らかでないといわざるを得ず,いずれにしても経管栄養を 再開したことに問題があったとは認め難い」 ■判決主文 (請求棄却)