判例速報
※この記事は、2006-10-17にメール配信されたものと同じ記事です。Medsafe会員各位 今回は,東京都文京区の区議会議員であった亡aが,文京区か らの委託により健康診断を行っていた被告bが経営する付属診療 所において,被告c医師による乳がん健診を受け,その際には特 に異常がないと診断されたが,その翌年に他の医師による乳がん 健診を受けた際,乳がんが発見されたものであるが,実際には乳 がんは平成13年当時に既に発生しており,被告c医師が必要な 検査をしなかったなどの過失により乳がんの発見が遅れ,そのた めに抗がん剤治療による苦痛とがんの転移による死への恐怖に苛 まれることになったとして,損害賠償請求した事案です。 ■年月日・裁判所 H18.05.24 東京地方裁判所平成16年(ワ)第1572号損害賠償請求事件 ■当事者 原告側:aは,昭和28年生まれの女性で平成17年11月25 日,死亡。aの父である原告が本件訴訟を承継した。 被告側:被告bは,医事衛生の進歩,公衆衛生の向上と発展,国 民福祉の増進に資することを目的とし,医事衛生の研究及び振興, 衛生思想の普及啓発,健康診断並びに健康管理に関する相談及び 指導その他の事業を行う財団法人であり,付属診療所を経営。被 告cは,平成13年10月1日当時,被告病院において乳房科健 康診断業務に従事していた医師。 ■診療経過 ・被告bは,昭和42年4月から,一般健康診断,がん検診など 職域,地域及び学校における健康診断業務を行っており,東京都 文京区との間で,平成13年5月30日,婦人健康診断委託契約 を締結した。 ・aは,文京区議会議員になる以前は,文京区民として区民向け の集団検診を,文京区議会議員になった後は,本件委託健診と同 内容の委託健診を毎年受けており(平成11年及び12年の検診 においては,いずれも異常なしとの診断を受けていた。),平成 13年当時も文京区議会議員であったことから,上記の委託健診 を同年においても受診することとした。この間,希望者向けに行 われた自己検診講習会にも参加し,定期的に自己検診を行ってい た。 ・被告病院は,乳房科の検診を初めて受診した者に対し,「月に 1度は乳房の自己検診を年に1度は専門医の検診を受けましょう。」 との文で始まり,「乳ガンの早期発見は,定期的に乳房の自己検 診を行い,しこりなどに気が付いたら,すぐに専門医に診せるこ とです。」との記載のほか,自己検診の方法,注意等の記載があ るパンフレットを看護師をとおして手交しており,aも,これを 見た記憶があり,その記載内容は理解していた。 ・aは,平成13年10月1日までに婦人健康診断通知書及び婦 人検診に関する質問票を受け取り,それぞれについて必要事項を 記入した。その際,質問票のうち,「乳房科に関する質問」との 記載以下の部分について,aは,「過去の授乳状況」,「豊胸術( 美容整形)の有無」,「[自覚症状]」欄の「しこり」,「いたみ」 等についてそれぞれその有無を記載した。 ・aは,平成13年10月1日,被告病院を訪れ,本件委託健診 に基づく婦人健康診断として,婦人科担当のe医師による問診・ 診察,子宮頸部の細胞診及び膣拡大鏡検査を受けたほか,乳房科 の検査を受診した。乳房科においては,aは,医師による問診に 先立ち,看護師から問診を受けた。その際,看護師は,aが事前 に提出した質問票の内容をなぞるように問診をし,そのほかに気 になることがないかaに対して尋ねた。看護師は,他方,aが質 問票に記入した内容を検診録の表紙に転記した。 ・検診録の表紙には,最上部に氏名,所属等の欄があり,その下 に婦人科に関する欄,更にその下に乳房科に関する欄がある。同 表紙のうち,乳房科に関する欄については,「授乳状況」,「豊 胸術有無」についてそれぞれ「無」の文字が丸で囲まれている (それぞれの「無」の文字を包含するように縦長の丸で囲まれて いる)。「自覚症状」の「しこり」については「無」の,「いた み」については「2.有」の,「乳首からの異常分泌物」につい ては「無」の,「その他気になること」については「2.有」の 文字がそれぞれ丸で囲まれ,上記2つの「有」の文字のそれぞれ 右側を起点及び終点として逆くの字型の直線が引かれ,また,逆 くの字の頂点よりやや下部に「時々有り」と,手書き文字での記 載がある。 ・aは,その後,診察室に入室した。被告cは,上記問診票を確 認してからaに対して問診をし,aの両乳房について触診及び視 診を実施した。その上で,被告cは,触診及び視診の結果,aの 左右乳房にしこり,びらん,変形及び陥没乳頭等が認められなかっ たことから,左右ともに異常がなく,右側腋窩リンパ節,左側腋 窩リンパ節及びその他のリンパ節を触知しなかった旨を検診録の 結果記載欄に記載し,「触診視診所見」,「臨床診断」欄はとも に「41 異常なし」に,「総合判定」欄は「40 異常所見なし」 にそれぞれ丸を付した。 ・被告cは,本件委託健診の契約内容に加え,「必要に応じ」と は「視触診により異常を認めた場合」をいうものとの認識のもと, aについては視触診の結果,異常がみられなかったことから,超 音波検査等の画像診断のための検査を実施しなかった。被告bは, aに対し,上記結果を記載した婦人健康診断結果報告書を送付し た。 ・aは,本件健診後も,1ないし2か月ごとに乳房の触診をする など自己検診をしていたところ,平成14年6月ころから右乳房 に鈍い痛みを何度か感じ,しこりもあるように感じた。同人は, 7月後半には右乳房に鋭い痛みを感じ,しこりが大きくなってい ると感じた。そこで,aは,8月末に受診すると申し込んでいた 文京区の委託健診の受診時期を繰り上げてもらい,8月15日に 被告病院において文京区の健康診断を受けた。 ・上記健康診断のうち乳房科の検診において,担当医師であった f医師は,問診及び触診を実施し,左乳房については異常なしと の診断をしたが,右乳房の乳首及びその周辺部位に可動性の悪い しこりを認め,がんの疑いがあったことから,乳房超音波検査 (エコー検査)を実施した。その結果,aの右乳房に2.39× 1.77×1.43センチメートル(以下においては「cm」と表 記することとし,以下,長さに関わる単位について同様とする。) の腫瘤影があり,左乳房に嚢胞があるとの所見を得たことから, f医師は,aに対し,紹介状を書くのでどの病院がよいかと尋ね たところ,aは,仕事をしながら通えるところがよいと考え,g 病院を希望した。そこで,f医師は,aに対し,同病院への紹介 状を書いて交付。 ・しかしながら,aは,乳がん検診で一番実績のある病院につい て調査をした上,平成14年8月20日,h病院を受診した。h 病院の担当医師は,同日,aの乳房について診察し,右乳房にが んの疑いがあると診断し,乳房X 線検査(マンモグラフィ)及び 乳腺超音波検査(エコー検査)をすることとし,いずれも9月3 日に施行された。その上で,aを担当したi医師は,9月12日, 上記各検査の結果,右乳房に26×31×19 mm の石灰化を伴 う腫瘤が,右腋窩に16 mmの腫大が三,四個,左乳腺に1 cm 未 満の嚢胞があり,結果として右乳房の腫瘤は浸潤性乳管がんであ り,リンパ節転移があるとの所見を得た。また,j医師は,aか ら経過について聞き取った上,aの腫瘤の進行度はT2N1M0,病期 はstage II B,触診時のしこりの大きさは3.8×3.7 cm で あるとの所見を得た。その上で,aから,年末年始に海外出張の 予定があるので化学療法をなるべく早く始めたいとの希望が述べ られたことから,j医師は,aに対して針生検を9月17日に実 施した上で化学療法を19日に開始することとした。 ・9月17日には針生検がaに対して行われ,9月19日に確定 診断に至ることが困難であることから,aの同意を得たうえ,2 4日から化学治療を開始することとした。24日,k医師は,上 記針生検の結果等から,aの右乳房のがんについて,浸潤性乳管 ガンであると確定診断した。 ■乳房X 線検査マンモグラフィの実施義務について 「aは,平成13年10月1日,被告病院において,外来受診で はなく本件健診委託に基づく婦人健康診断として乳房科検診を受 診したものであるところ,集団検診は,その内容が契約によって 定められており,しかもその内容は,検診者の乳房を視触診し, 必要に応じて,乳房X 線検査(マンモグラフィ)や超音波検査を 施行するものとされていた」 「上記にいう『必要に応じて』とは・・・,厚生省の基準からす れば原則として40歳代の女性には乳房X 線検査(マンモグラフィ) 等を実施すべきとはされていないことや,行うべき検査が医学的 検査であることからして,その必要性の判断は医師がするもので あるところ,医師が必要性を感ずるのは通常,病変が存在すると の疑いを感じた場合であると考えられることからすれば,問診及 び視触診の結果異常があると認められた場合をいうものと解する のが相当であるから,結局,本件健診の内容は,医師が受検者に 対して問診をし,検診者の乳房を視触診した上,異常があると認 められた場合に限り,乳房X線検査(マンモグラフィ)や超音波検 査を施行するというものであったと認められる」 「そして・・・,乳がんの診断をする際の手順としては,乳房に 痛みがあることを問診等で確認することは求められていないとこ ろ,ある症状が医学的にある病気の徴候である場合にはこれを診 断すべき要素とするのが通常であると考えられることからすれば, 乳房の痛みが乳がんの存在を疑わせる徴候とは考えられていない ということができる。また・・・,乳房に痛みを感じたことをきっ かけとして乳がんが発見された場合はあるものの,乳房の痛みと 乳がんとの関係については有意な関係があると認めるに足りる医 学的知見は見当たらず,これらのことからすれば,乳房の痛みが 医学的に乳がんの存在を疑わせる徴候であるとの確立した医学的 知見は認められない」 「なお,『婦人健診に関する質問票』には,自覚症状としての痛 みの有無を問う欄が設けられているが,これは,患者が乳房の痛 みを訴えることにより痛みの部位を重点的に触診してしこりの有 無を確かめたり,乳がん以外の乳房の病気全般の発見が期待され ることによるものであり,痛みのみによって乳がんの存在を疑う 趣旨ではないと認められる」 「したがって,本件健診においては,問診の結果,乳房の痛みが あると認められたとしても,このことのみが乳がんの徴候とはな らない以上,さらに視触診によって何らかの異常が認められなけ れば,2次的検診として乳房X 線検査(マンモグラフィ)や超音 波検査を施行することにならないことになる」 「他方・・・,集団検診の目的は,がんになった者をできるだけ 早く発見して死を回避することで,集団としての乳がん死亡率を 減少させることにあり,その有効性を評価する際にも,感度(が んのある者を陽性と判定する割合)及び特異度(がんのない者を 陰性と判定する割合)のいずれもが高値である場合を以て適切と 評価され,そのような評価を得るために,1次的な検診として視 触診をし,異常であると認められた場合に2次的な検診として乳 房X 線検査(マンモグラフィ)等を実施するとの段階的な内容が 定められているものと認められる。このように,集団検診は,個 々の受検者について疾患の有無を確定診断することを目的とする ものではなく,集団としての死亡率を減少させるとの観点から一 定割合の有病者を効率よく発見し得るように実施すべき内容が明 確に定められているのであるから,医師には,集団検診の実施者 として,その内容を誠実に履行すべき義務があり,かつ,それを もって足りるというべき」 「・・・本件健診を担当した医師は,受検者について問診及び視 触診を実施し,その結果異常があると認められた場合に限り乳房X 線検査(マンモグラフィ)や超音波検査を実施すれば足りるので あり,かつ,乳房の痛みがあることのみでは異常があるとは認め られないのであるから,乳房の痛みがあることのみを端緒として, 乳房X 線検査(マンモグラフィ)等を実施すべき注意義務がある とは認められない」 「本件においては,被告cは・・・,乳房の痛みを訴えるaに対 して問診及び視触診を実施し,異常がないと判定したものである が,上記のとおり乳房X 線検査(マンモグラフィ)等を実施すべ き注意義務が認められないから,被告cに,乳房の痛みを端緒と して乳房X 線検査(マンモグラフィ)等を実施すべき注意義務は ないのであって,同人及び被告bに同注意義務違反をした過失は ない」 「原告は・・・,乳房の痛みがあると訴える者に対して乳房X 線 検査(マンモグラフィ)等を実施すべき注意義務があるにもかか わらず,被告cは,乳房の痛みについて詳細に問診することなく, 乳房の痛みを軽視して乳房X 線検査(マンモグラフィ)等を実施 しなかったと主張し,その理由として,本件委託検診のうち, 『仕様書に明示されていない事項であっても,受託業務の性質上 当然必要なものは,乙(被告b)の負担で行うことができる』と の内容について,これを,文京区との関係では,被告bの負担で, 被告bと受検者との関係では受検者の負担で乳汁細胞診・乳房X 線検査(マンモグラフィ)・超音波断層撮影等の検査を行うこと ができると解釈し,これを前提に,本件健診が,規定の検査以外 は全額自己負担となることを理由として,受検者が拒まない限り, 規定外の検査の追加を回避する理由はないこと等を挙げる」 「しかしながら,原告が依拠する医学的知見が認められない以上, 原告の主張は前提において誤りであるといわざるを得ない。のみ ならず,原告が指摘する上記契約文言は,仕様書に明示されては いないが,明示された業務に通常随伴する事項に関するものと解 するのが素直な解釈というべきであり,問診や視触診に通常随伴 するものでない検査を想定した文言ではないと解すべきである。 また・・・,集団検診は,目的と方法,評価の点において,外来 受診のように,来院した個々の患者について診療を施すことを目 的とし,ある症状を訴えてきた患者に対してその納得が得られる まで検査等を実施し,病気の有無を診断して治療することとは異 なるものであって,原告は,この点を看過ないし混同したものと いわざるを得ない」 「むしろ,集団検診であることを前提とする以上,本件において aに対して乳房X 線検査(マンモグラフィ)等が実施されなかっ たことについては・・・,集団検診の制度自体の内在的な問題で あるといわざるを得ないのであって(なお・・・,文京区におい ては,現在は40歳代の女性に対しても乳房X 線検査(マンモグ ラフィ)等を原則として実施している。),これを医師ないし検 診受託病院の責任であるとする原告の主張は採用できない」 ■被告cによる説明義務違反・指示義務違反について 「・・・aには,乳房の痛みのほかには特に自覚症状がなく,か つ,被告cがaの乳房を視触診した結果,しこり等の所見もなく 異常がなかったのである。そうすると,aは,乳がんとの関係で は無症状で異常がなかったことになる」 「他方,一般に,経過観察等の指示は何らかの症状ないし異常所 見がみられた場合にはじめて指示されるものであって,このこと からすれば,無症状,異常なしとの診断をした受検者ないし患者 に対して特に指示すべき事項はないし,医師としては,病気の徴 候を示して,これが現れたと考えられるときに外来受診するよう 助言することが考え得るにとどまる。他方,病気の徴候であると 確定できない要素について,これをことさらに取り上げて外来受 診のきっかけとするよう助言することは,受検者ないし患者との 関係で適切さを欠く場合もあると考えられるところ,集団検診の ようにいわば多数の者に画一的な検査を実施する場においてこれ をすることはむしろ受検者に対して無用の誤解を与えるおそれさ えあるというべき」 「以上に照らすと,集団検診において,無症状で異常のない受検 者に対しては,受検者が特定の症状を特に気にして医師に対して 訴えるなどの特段の事情がない限り,経過観察をするとか特定の 検査等を受診するといったことを指示することについては,医師 に対してそのような注意義務を課することはできないというべき である。すなわち,被告らにおいてaに対して指示ないし説明す べき事項があるとするならば,それは,他の受検者と同様に,定 期的に自己検診を行って異常に気づけば直ちに専門医を受診する ことに止まるのであり・・・,その旨を記載したパンフレットが 受検者に交付されていて,aもその内容を理解していたのである から,被告らにおいては,なすべき指示・説明を行っていたと認 められる」 「したがって,aの検診を担当した被告cに,乳がんの徴候とは 認められない乳房の痛みについて経過観察等をして外来受診する よう説明ないし指示すべき義務はないというべきであって,被告 c及び被告bに,乳房の痛みについて経過観察等をして外来受診 するよう説明ないし指示すべき義務に違反した過失はない」 「原告は,平成13年10月1日における本件健診日の経過につ いて,被告cが,aに対して座位でのみで仰臥位での触診をせず, しかもaが訴えた乳房の痛みについて,左右の別等の位置の特定 をすることもなく,『気のせいで心配ない』と述べたにとどまっ たと主張し,aも同旨を述べる」 「しかしながら,被告cは,痛み自体の存在を否定するような発 言をすることはないとして,『気のせいで』との発言については 強く否定しており,仮にそのような発言があったとしても,その 発言の趣意は痛みがあっても心配は要らないという点にあるとこ ろ,前記のとおり,乳房の痛みが乳がんの徴候とは認められない 以上,乳がんとの関係で心配ないと述べたとしても,このことは, 被告cの説明ないし指示義務違反の成否について,その結論を左 右するものではない」 ■判決主文 (請求棄却)