判例速報
※この記事は、2007-06-08にメール配信されたものと同じ記事です。Medsafe会員各位 今回は,被告病院において受診していた原告が,被告に対し, 原告に対して喀痰細胞診又は気管支鏡検査を実施すべき義務があっ たにもかかわらず,これを怠った結果,肺癌の発見が遅れて左肺 をすべて摘出する必要が生じたとして,損害賠償請求した事案で す。 ■年月日・裁判所 H19.4.24 山形地方裁判所平成17年(ワ)第84号 損害賠償請求事件 ■当事者 ・原告:昭和20年生まれ ・被告:a病院(被告病院)の開設者 ■診療経過 ・平成10年2月20日ころより,原告は,発熱,咳及び痰の症 状により,b医院に通院していたが,胸部X線撮影で肺炎像が認 められ,同医院より肺炎治療のために被告病院を紹介された。 ・3月6日被告病院に入院。原告は,被告病院に入院したとき, 1日にたばこを20本吸う旨申告し,被告病院担当医師であるd 医師もそのことを認識。原告は,被告との間で,適切な診療行為 を行う準委任契約を締結。 ・平成10年3月12日に原告に対して行われた胸部造影CT検 査の所見は,肺炎瘢痕化の症状があるが,腫瘤の存在は指摘でき ないというもの。 ・3月14日,d医師は,原告から,血痰が出た旨告げられると ともにティッシュペーパーにはき出された痰様のものを見せられ たが,その痰に赤い糸状のものが付着しているのを確認して,喉 などに炎症があり出血したものが痰に出たもので血痰ではないと 判断して,原告に対し,その旨説明するとともに,カルテに「血 痰?血がまじる(+)」と記載。 ・3月16日,d医師は,原告から,以前にも血痰が出たことが あった旨聞いていたため,原告の喀痰を採取して結核菌検査を行 うように指示した。 ・3月17日,原告の咳などの症状が改善したことから,原告は, 被告病院を退院。 ・3月24日に原告に対して行われた胸部レントゲン検査の結果 によれば,左肺に陰影が残存していたため,経過を観察すること となった。 ・4月20日に原告に対して胸部単純CT検査が行われ,放射線 科の医師は,前回と同様,左舌区末梢に線状斑状の病変が見られ るものの,前回に比べて収束性変化は少なくなっており,瘢痕化 と考えるが,気管舌区枝にギザギザな変化がみられるので喀痰細 胞診は時々行ってみた方がいい旨報告。平成10年4月24日, 放射線科の医師による前記報告を受けて,原告に対し,喀痰細胞 診が行われたが,同月25日,組織球が見られず検査材料が不適 当であるため,判定不能である旨報告された。平成10年5月1 日ころ,d医師は,原告に対し,自宅で痰を採取して被告病院に 提出するよう指示。原告は,その翌朝,痰を出そうとしたが出せ ず,被告病院の看護師に対し,その旨報告。その後,喀痰細胞診 については,被告病院からの指示や原告からの申し出もなく,平 成11年7月18日まで,原告に対し,喀痰細胞診は実施されな かった。平成10年5月29日,原告は,被告病院で受診したが, d医師から同年8月にCT検査を受けるため来院するように指示 された。原告は,平成10年8月19日,同月21日及び同月2 2日に被告病院で受診した際,咳の症状を訴えていた。同月26 日に原告に対して行われた胸部単純CT検査の結果は,左SSの 浸潤影は同年4月20日のCT45検査と比べて淡くなっており, 肺門に腫大は認められないというものであった。 ・8月26日,原告は,咳が少ししか減らない旨述べた。 ・9月4日ころ,d医師は,原告が気管支喘息であると診断。 ・10月22日より夜間咳が止まらず,呼気のラ音が強く,症状 が改善しないため,気管支喘息と診断されて,9月27日,被告 病院に入院し,11月10日,退院。この入院中,原告には,咳 の症状が認められ,痰も出ており,同年10月28日及び同月2 9日に原告が出した痰には血液が混入。 ・原告は,平成10年11月20日から平成11年7月6日まで, 被告病院に21回通院し,その間も咳の症状を訴えることがあっ た。 ・平成11年5月16日,原告は,被告病院で受診した際,d医 師に対し,朝犬を連れて散歩をしていたときにひどく咳き込んで 血の塊が出た旨話すと,同医師は,咳のために気道粘膜が損傷し て出血している旨説明。 ・7月6日,原告は,咳がひどいため,被告病院に入院し,急性 気管支肺炎及び気管支喘息と診断されて,投薬措置を受けて,そ の症状が改善し,7月9日退院。 ・7月12日,原告に対して胸部単純CT検査が行われた。その 所見は,左上葉気管支内に突出する腫瘤が認められ,造影CT検 査及び気管支鏡検査が必要であり,左肺癌の疑いがあるというも の。 ・7月16日,原告に対して胸部造影CT検査が行われた。その 所見は,左主気管支及び左上葉気管支周囲に軟部腫瘤が認められ, 単純CTで見たときより左肺門頭尾側のかなりの範囲で腫瘤が存 在しているように認められ,左肺癌の印象であり,進行度がIIb 期になっている疑いがあるというものであった。 ・7月23日,d医師は,山形大学医学部附属病院(以下「大山 病院」という)に対して原告を紹介し,肺癌の精査を依頼。 ・8月5日,原告は,山大病院において,気管支鏡検査を受けて 扁平上皮癌である旨診断され,同年9月2日,同病院の医師から, 肺癌の進行度がIII期である旨説明された。 ・8月24日,原告は,山大病院に入院した。その際,原告は, 30年間,1日にたばこを20本吸ってきたが,同年7月24日 ころより禁煙している旨申告し,山大病院では原告の喫煙指数が 600であると判断された。原告の癌が発見された部位は肺門部 であった。原告の罹患した肺癌の種類は,中心型早期肺癌(肺門 部早期肺癌)であった。 ・8月24日,山大病院に入院。9月2日,肺癌の進行度がIII期 である旨告知され,同月14日左肺上葉及び区域S6切除並びに 肺動脈形成及び気管支形成術を受け,12月17日退院。 ・平成15年1月8日,左肺に癌が発生したため,山大病院に入 院。 ・1月28日左肺をすべて摘出する手術を受けた。 ■喀痰細胞診を実施すべき注意義務の有無 「喀痰細胞診は,主に肺癌の有無を診断するため,喀痰に含まれ る細胞を形態学的に検討して,その中に含まれる悪性細胞の有無 を検索する検査である」 「平成元年1月10日に発行された『癌の臨床別冊癌診断・治療 マニュアル』には,咳,痰などの気管支症状,それも持続する症 状を主訴とする場合は疑って,喀痰細胞診などの精検を行い,血 痰患者には喀痰細胞診を手軽に行わなければならない旨記載され ている」 「平成2年2月1日に発行された『図説臨床看護医学第1巻呼吸 器』には,肺門部肺癌の中に胸部X線写真で異常陰影として検出 できない肺癌があり,このような肺癌には外科的手術療法で完全 治癒の望める早期肺癌が多く,その診断に喀痰細胞診が非常に有 力である旨記載されている」 「平成5年6月25日に発行された『看護必携シリーズ第3巻内 科I』には,肺癌の検査方法の一つとして喀痰細胞診があり,咳, 血痰を訴える40代以上の人及び胸部異常陰影のある人に喀痰細 胞診を実施する旨記載されている」 「平成15年に発行された『今日の診療プレミアムVol.13』のう ち,e国立がんセンター中央病院総合病棟部長が執筆した部分に は,40歳以上であれば,高危険群(男性,喫煙指数〈1日当た りの喫煙本数と喫煙年数をかけた数値〉400以上,40歳以上) であろうとなかろうと肺癌を念頭において診療,検査を進めるべ きであり,喫煙者,ことに高危険群では,胸部X線撮影で異常影 が認められない場合でも,喀痰細胞診を行い,陰性の場合は1年 後に,C判定の場合は6か月後に再検査を行う旨記載されている。 前記部長が執筆した部分で引用されている文献はすべて平成9年 以前に発行されたものであり,平成10年当時の知見を反映した ものである」 「前記のとおり,平成10年当時においても,咳又は血痰を訴え る患者には喀痰細胞診を実施すべきである旨記載した文献が存在 し,喫煙者には喀痰細胞診を実施すべきであるとの見解も存在し ていたところ・・・,原告は,平成10年3月6日から同月17 日まで被告病院に入院したときに,被告に対し,過去に血痰が出 たことがあり,1日に20本喫煙している旨申告し,実際にも原 告には咳及び痰の症状が認められたほか,平成10年8月に被告 病院で受診したときにも,原告は咳の症状を訴えているのである から,前記文献等によれば,原告は喀痰細胞診の対象者であると いえること,平成10年4月20日に被告病院放射線科の医師が, 担当医師に対して,原告に対する喀痰細胞診の実施を勧め,同月 24日には,被告病院において原告に対する喀痰細胞診が実施さ れ,その結果が判定不能であったことにより,同年5月1日ころ には,担当医師から原告に対して喀痰を採取すべき旨指示がなさ れていることを総合考慮すれば,被告は,遅くとも平成10年8 月以降,原告に対し,喀痰を提出させて喀痰細胞診を実施し,異 常の有無を確認すべき注意義務があったというべき」 「そうすると,被告において,原告に対する喀痰細胞診で検査材 料が不適当なため判定不能との結果が出たにもかかわらず,平成 10年5月1日ころに原告に対して喀痰を採取して提出するよう 指示したにとどまり,平成11年7月18日まで,痰の症状が認 められた原告から喀痰の提出を求めて喀痰細胞診を実施して異常 の有無を確認しなかったことは,前記注意義務に違反し,過失が あったといわざるをえず,この点に関する被告の主張には理由が ない」 「なお,原告は,平成10年8月以降,原告に対し,短い間隔, 例えば1か月おきくらいに定期的に喀痰細胞診を行うべき義務が あった旨主張する」 「しかしながら『臨床・病理, 肺癌取扱い規約』には,判定区分 がBである場合には定期検査の受診を指導し,判定区分がCの場 合に6か月以内に追加検査を受診するように指導すべきである旨 記載され,『今日の診療プレミアムVol.13』にも,胸部X線撮影 で異常影がない場合,喫煙者,ことに高危険群の者(男性,喫煙 指数〈1日当たりの喫煙本数と喫煙年数をかけた数値〉400以 上,40歳以上)に対しては,喀痰細胞診の結果が陰性のときに は1年後に,C判定のときには6か月後に再検査を行うべき旨記 載されているにとどまり,また,原告に対する胸部X線撮影で指 摘されたのは肺炎像であって腫瘍の存在が指摘されたことはなく, CT検査で肺癌の疑いが指摘されたのは平成11年7月12日以 降であったのであるから,原告に対し,平成10年8月以降,6 か月よりも短い間隔で定期的に喀痰細胞診を実施すべき義務があっ たとまでは認められず,原告の前記主張は理由がない」 ■気管支鏡検査を実施すべき注意義務の有無 「気管支鏡検査は,気管支鏡を鼻又は口から挿入して気管まで進 めて,局部麻酔をしながら,必要に応じて生検等を行うものであ る。その合併症としては,低酸素血症,呼吸抑制,咽頭攣縮,気 管支攣縮,不整脈及び出血などがある。気管支が攣縮すると,窒 息及び出血等を引き起こす危険もある」 「・・・原告について,平成11年2月までに,胸部X線撮影及 びCT検査で肺癌の疑いが指摘されたり,喀痰細胞診の結果がC ないしE判定になったことはなかったこと,気管支鏡検査は,窒 息等を引き起こす危険があり,胸部X線撮影,CT検査及び喀痰 細胞診ほど容易に行える検査ではないことなどに照らせば,平成 11年2月の時点で,被告は,原告に対し,気管支鏡検査を実施 すべき注意義務があったとは認められない」 「なお,原告は,平成11年2月ころの時点では原告に対して気 管支鏡検査を行うべき義務があったことの裏付けとして,c医師 の作成した意見書に「陰影が残存していること,ハイリスク患者 であること,肺癌合併を考慮して,早期に気管支鏡を実施する方 法もある。喀痰検査,胸部CTよりも気管支を直視できるため, 肺門部肺癌の診断率は高い」と記載されている旨指摘する」 「しかしながら,前記意見書には,気管支鏡検査について「侵襲 度が強いことを理由に実施に応じることはさらに少ない。・・・ 胃カメラ並みに実施することは困難である。」とも記載されてお り,前記意見書は,気管支鏡検査の実施が容易ではなく,被告病 院において同検査を実施しなくても原告に対する処置が不適切な ものではなかったことを示唆しているものと解されるのであるか ら,前記意見書は,原告に対して気管支鏡検査を実施すべき義務 があったことの根拠とはならないというべきである」 「よって,原告の前記主張は理由がない」 ■喀痰細胞診実施義務の懈怠と原告の左肺全部の摘出との相当因 果関係 「訴訟上の因果関係の立証は,一点の疑義も許されない自然科学 的証明ではなく,経験則に照らして全証拠を総合検討し,特定の 事実が特定の結果発生を招来した関係を是認しうる高度の蓋然性 を証明することであり,その判定は,通常人が疑いを差し挟まな い程度に真実性の確信を持ち得るものであることを必要とし,か つ,それで足りるものである。これは,医師が注意義務に従って 行うべき診療行為を行わなかった不作為と患者の後遺障害の発生 との間の因果関係の存否の判断においても異なるところはなく, 経験則に照らして統計資料その他の医学的知見に関するものを含 む全証拠を総合的に検討し,医師の上記不作為が患者の後遺障害 の発生を招来したこと,すなわち,医師が注意義務を尽くして診 療行為を行っていたならば患者が後遺障害を発生していなかった であろうことを是認し得る程度の高度の蓋然性が証明されれば, 医師の上記不作為と患者の後遺障害の発生との間の因果関係は肯 定されるものと解すべきである(最高裁平成8年 第2043号同 11年2月25日第一小法廷判決・民集53巻2号235頁参照)」 「・・・中心型肺癌について喀痰細胞診の陽性率が高い旨指摘す る文献があるものの,中心型早期肺癌における喀痰細胞診の陽性 率について,『EBMの手法による肺癌診療ガイドライン200 3年版』では,20ないし70パーセントと報告されている旨記 載されており,この数値では,原告に対して喀痰細胞診が実施さ れた場合に原告の喀痰から癌細胞が検出されて中心型早期肺癌と の診断がなされたであろうことを是認しうる高度の蓋然性が証明 されたとはいえない上・・・,平成11年7月19日に原告から 採取された喀痰について実施された喀痰細胞診では,原告の胸部 CT検査で左肺に腫瘍が認められたにもかかわらず,癌細胞が発 見されなかったのであるから,平成10年8月以降に原告に対し て喀痰細胞診が実施されていても,その結果が陰性になった可能 性が少なからずあったといえる。そして,平成15年1月28日 に左肺全部の摘出手術を行った執刀医は,同日切除された癌(以 下「第2の癌」という。)について,平成11年9月14日に切 除された癌(以下「第1の癌」という。)が再発したものか否か 不明である旨述べており,第2の癌が第1の癌の再発したもので あるとまでは認められず,第2の癌が新たに発生したものである 可能性を否定できないところ,第2の癌が新たに発生したもので あるとすれば,第1の癌の切除が平成11年9月14日よりも早 期に行われたとしても,第2の癌の発生を回避できたとは推認す ることができない」 「以上の事情に照らせば,平成10年8月以降に原告から喀痰を 採取して喀痰細胞診を実施していれば,原告の喀痰から癌細胞が 発見されて中心型早期肺癌との診断がなされ,第1の癌が早期に 摘出されることによって第2の癌の発生を回避できたであろうこ とを是認し得る程度の高度の蓋然性があったとは認めがたく,喀 痰細胞診の実施義務の懈怠と原告の左肺全部の摘出との間に相当 因果関係は認められない」 「なお,原告は,現在の知見によれば,中心型肺癌における喀痰 細胞診の陽性率は70ないし80パーセント以上であり,本件で は何度も喀痰細胞診が実施されるべきだったから,複数回の喀痰 細胞診が実施されれば,その陽性率が高まり,喀痰細胞診で癌細 胞が発見されて早期に中心型早期肺癌との診断がなされ,左肺全 部の摘出を回避できた高度の蓋然性がある旨主張し,喀痰細胞診 の陽性率について『Nursing , Mook1 呼吸器疾患ナーシング』及 び『肺癌の診断指針』と題するホームページには,中心型肺癌に おける陽性率が高い旨掲載され,『内科診断検査アクセス』と題 するホームページには,中心型肺癌における陽性率が70ないし 80パーセント以上である旨掲載されている」 「しかしながら,『内科診断検査アクセス』と題するホームペー ジに掲載されているデータは,平成元年5月20日に発行された 医学文献を根拠にしたものであって,同ホームページに掲載され た喀痰細胞診の陽性率の値が現在の知見を反映したものとはいえ ない上,『EBMの手法による肺癌診療ガイドライン2003年 版』第6章に記載されている喀痰細胞診の陽性率は,中心型早期 肺癌に対する喀痰細胞診の陽性率が記載されているのに対し, 『Nursing Mook1 呼吸器疾患ナーシング』には,『肺門型肺がん では陽性率が高い。』と記載され,『肺癌の診断指針』と題する ホームページには,『重喫煙者にみられる中心型肺癌(気管支の 亜区域支より中枢側に発生したもの)で陽性率が高い。』と記載 され,『内科診断検査アクセス」と題するホームページには, 『肺門型肺癌では陽性率が70〜80%以上と高く,肺野型でも 40%前後の陽性率である。』と記載されていて,その陽性率に 関する数値が中心型肺癌全体に対する喀痰細胞診の陽性率である と認められるところ,中心型早期肺癌は,中心型肺癌の中で,癌 の浸潤が比較的進んでおらず,かつ,リンパ節転移及び遠隔転移 がないものに限られ,中心型早期肺癌に対する喀痰細胞診の陽性 率は,中心型肺癌全体に対する喀痰細胞診の陽性率よりも低くな ると推認できるのであるから,中心型早期肺癌に対する喀痰細胞 診の陽性率が70ないし80パーセント以上であることが現在の 知見になっているとは到底認められない。また・・・,平成10 年8月以降,原告に対して,6か月よりも短い間隔で定期的に喀 痰細胞診を行うべき義務があったわけではないのであるから,原 告に対して何度も喀痰細胞診が行われるべきであったとはいえな い上,喀痰細胞診の実施回数を増やせば,中心型早期肺癌に対す る喀痰細胞診の陽性率が有意に高まることを認めるに足りる的確 な証拠もない。よって,原告の前記主張は理由がない」 ■判決主文 (請求棄却)