判例速報

※この記事は、2007-06-15にメール配信されたものと同じ記事です。
Medsafe会員各位


 今回は,出産の際に出血性ショックを起こして死亡した妊婦に
ついて,産婦人科医師には子宮頚管裂傷を見落とした過失,適切
な輸液等の措置を講じなかった過失はなく,また,高次医療機関
への転送義務についても,救命可能性に合理的疑いが残るとして
過失を否定して「無罪」を言い渡した刑事事件の事案です。

■年月日・裁判所
H19.2.27 名古屋地裁 平成15年(わ)第3061号 業務上過失致死被告事件

■当事者

被告人:名古屋市のAにおいて,産婦人科医師として医療業務に
従事する者。

■公訴事実

 被告人は,名古屋市a区bc丁目d番地所在のAにおいて,産
婦人科医師として医療業務に従事していた者であるが,平成12
年8月31日午前10時ころから同日午後3時26分ころまでの
間,前期破水を起こしたため入院した妊娠37週のB(当時31
歳。)に対する分娩介助を行うにあたり,陣痛の発来が認められ
ないため,陣痛を誘発して早期に分娩させるべく,Bに対し,い
ずれも陣痛誘発剤であるプロスタルモン・E錠及びプロスタルモ
ン・F注射液を投与したところ,同日午後2時30分ころ以降,
胎児に徐脈傾向が見られ,胎児仮死が懸念されたことから,同日
午後3時過ぎころ,Bの分娩を早めるため,急速遂娩法であるク
リステレル法及び吸引分娩法を施し,同日午後3時26分ころ,
Bが男児を分娩し,その際子宮頚管裂傷を負ったものであるが,
かかる場合,産婦人科医師としては,上記プロスタルモン・E錠
及びプロスタルモン・F注射液には,副作用として,分娩時に子
宮頚管裂傷を生じさせるおそれがある上,急速遂娩法であるクリ
ステレル法及び吸引分娩法には,自然分娩に比して,子宮頚管裂
傷を生じさせるおそれが高く,かつ,子宮頚管裂傷は,早期に適
切な処置を施さなければ,出血性ショックにより死に至るおそれ
があることを十分予見できたのであるから,分娩後のBの内診及
び視診を十分に行って,子宮頚管裂傷の有無を精査し,早期に裂
傷を発見して止血等の措置を講じ,その間,Bが多量の出血によ
り出血性ショック状態に陥っているのを認めた場合には,直ちに,
出血量に応じた輸液措置を講じて血圧の回復を図るとともに,以
後も出血が継続する事態に備えて,予め輸血用血液を手配し,な
お,Bに対し,膣鏡を用いた内診や視診を行っても出血部位が発
見できず,その出血状態を速やかに回復するための措置をとるこ
とができないのであれば,より高度の医療処置を受けさせるべく,
人員,設備等が備わった高次の病院に直ちにBを転院させるなど
して,Bの死亡を未然に防止すべき業務上の注意義務があるのに,
これを怠り,Bの分娩直後の時点において,内診や視診を十分に
行わなかったため,分娩時にBが負った子宮頚管裂傷を見落とし,
その後,助産師のCから同日午後5時20分ころに約200グラ
ム,同日午後5時45分ころに約300グラムの新たな出血がB
に認められた旨の連絡を受け,同日午後6時8分ころ,Bに対す
る診察,治療を再開し,同日午後6時16分ころ,膣鏡を用いた
内診や視診を行った際も,十分な視診を行わなかったため,再び
Bの子宮頚管裂傷を見落とした上,そのころ新たに認められた約
710グラムの出血を含めた多量の出血により,Bが,同日午後
5時45分ころ以降血圧が著しく低下し,貧血によるめまいも認
められ,出血性ショック状態に陥っているのが明らかな状態であっ
たから,直ちに,出血量に応じた輸液措置を講じて血圧の回復を
図るとともに,以後も出血が継続する事態に備えて,予め輸血用
血液を手配するべきであったにもかかわらず,Bの出血原因は弛
緩出血であり,昇圧剤と子宮収縮剤の投与等の処置により止血で
きるものと軽信し,同日午後7時15分ころに至るまで,Bに対
する輸血用血液の手配も行わないまま,Bに対して十分な輸液措
置を講じず,さらに,その後もBの出血部位が発見できず,Bの
出血状態を回復するための措置を講ずることができなかったので
あるから,直ちにBを高次の病院に転院させるべきであったのに,
転院等の措置を講じなかった過失により,同日午後10時10分
ころ,同所において,Bを子宮頚管裂傷による出血性ショックに
より死亡させた。

■診療経過

・平成12年1月17日,BはAに妊娠と診断され,以後,初め
ての出産に備えて,Aで定期的に診察を受けていた。

・8月30日夜に自宅で破水したことから,翌31日午前10時
ころAに赴いて被告人の診察を受けた。その結果,被告人から前
期破水を起こしているので,羊水中に細菌が混入して胎児が感染
症に罹患するのを防ぐ必要があることなどを理由に,陣痛誘発剤
を使用して同日中に出産した方が良いとの説明を受け,これを了
承して入院。

・被告人は,陣痛を誘発して分娩を早めるための陣痛誘発剤及び
胎児の通過する子宮頚管に裂傷を生じさせないように開大させる
ための熟化剤を投与するなどし,分娩の促進を図って自然分娩に
よろうとしたものの,胎児の心拍数に異常が認められ仮死状態に
あることが危惧されたことから,急速遂娩法である子宮底を圧迫
して分娩を早めるクリステレル法及び胎児の頭部に吸引キャップ
を装着して吸引する吸引分娩法により,31日午後3時26分こ
ろ,男児を娩出。

・分娩直後,胎盤受けには約300ミリリットルの血液が溜まっ
ており,被告人はそれを視認したがその分量は確認していない。
また,ホスピタルマットには羊水と混じった血液が染みこんでお
り,羊水と血液の合計の重量は780グラム。分娩直後の時点で
Bの身体状況は異常なし。

・8月31日午後4時ころからは輸液(ラクテック)と子宮収縮
剤(パルタン)を混合した毎分30滴の点滴に交換された。出産
から約1時間経過後の午後4時30分ころ,Bは病室に戻った。
同時刻のナプキン交換時に40グラムの新たな出血が確認された
が,その血液の色は黒っぽい色であった。

・午後5時20分ころ,ナプキンが交換された際,Bには200
グラムの新たな出血が認められ,めまいの訴えもあった上,脈拍
が1分間に92回を記録。

・午後5時45分ころ,ナプキンが交換された際,Bに新たな出
血300グラムが認められるとともに,収縮期血圧60mmHg,
拡張期血圧は不明で,脈拍が1分間当たり98回の数値を示した。
Bのこの計測結果は,午後6時ころ被告人に報告された。被告人
は,これを受けて,助産師に対し,子宮収縮剤(パルタン)の筋
肉注射を指示するとともに,診察するためBを分娩室に移動させ
るように指示し,被告人も自宅から分娩室に赴いた。

・午後6時8分ころ,Bは分娩室に到着し,そのころから被告人
による診察が開始された。午後6時9分の時点で,Bの収縮期血
圧は65mmHg,拡張期血圧は58mmHg,脈拍は1分間当たり
61回であることが計測され,被告人にその場で報告された。被
告人の指示で,子宮収縮剤(パルタン)が点滴の側管から注入さ
れた。

・被告人が診察中の午後6時15分に計測されたBの収縮期血圧
は65mmHg,拡張期血圧は53mmHgで,脈拍は1分間当たり
35回であり,これも被告人にその場で報告された。午後6時1
6分ころに,被告人の指示で,点滴が二股にされ,一方から輸液
(ラクテック)が全開の毎分110滴で,もう一方から輸液(ラ
クテック)と子宮収縮剤(パルタン)の混合液が毎分30滴で実
施された。被告人は,この時点においても出血部位や出血原因を
特定することはできていなかった。

・午後6時16分ころから子宮内容清掃術で子宮の内容物を排出
させるとともに,膣鏡を用いてBの子宮部等の内診を行った。こ
のとき710ミリリットルの出血を確認。

・ 午後6時20分ころ,被告人の指示で昇圧剤のエフェドリンが
側管から注入された結果,Bの収縮期血圧は89mmHg,拡張期
血圧は81mmHg,脈拍が1分間当たり160回となったが,午
後6時26分の計測時には,収縮期血圧は66mmHg,拡張期血
圧は不明となった。被告人は,午後6時40分ころ,子宮頚部に
子宮収縮剤(プロスタ)を注射した。その後,午後6時43分の
計測時には,Bの収縮期血圧は163mmHg,拡張期血圧は12
5mmHg,脈拍は1分間当たり37回となったが,午後6時47
分の計測では,再び収縮期血圧68mmHg,拡張期血圧は不明と
なったため,被告人は輸液やエフェドリンの注入などの措置をとっ
た。

・午後7時5分ころ,酸素投与開始。

・午後7時15分ころには輸血用血液の手配がなされた。午後7
時25分にナプキンが交換された際,170ミリリットルの出血
を確認。

・午後7時35分ころ,Bは意識不明に陥った。午後7時53分
ころにはショックによる心停止が発生し,気管内に挿管がされ,
心臓マッサージが開始された。被告人は,D附属病院への応援要
請を指示。

・午後8時10分ころに手配中の輸血用血液が到着し,午後8時
15分ころから輸血開始。

・午後8時17分ころ,応援の麻酔科医師2名(O医師,P医師)
が到着してBに対する蘇生措置に当たることになった。このころ
Bには著明なチアノーゼを確認。

・午後8時42分ころ,Bの腹部に膨満がみられるようになり,
午後9時には肺水腫が生じた。また,このころ輸血を追加。

・午後9時18分ころ,更に応援の麻酔科医師1名(G医師)が
到着し,蘇生措置が続けられたものの,午後10時10分にBの
死亡確認。

■検察官の主張する過失

・分娩後のBの内診及び視診を十分に行って,子宮頚管裂傷の有
無を精査し,早期に裂傷を発見して止血等の措置を講ずべき注意
義務があるのに,子宮頚管裂傷を見落とした過失。

・Bが多量の出血により出血性ショック状態に陥っているのを認
めた場合には,直ちに出血量に応じた輸液措置を講じて,血圧の
回復を図るとともに,午後6時9分の時点で,以後も出血が継続
する事態に備えて,予め輸血用血液を手配すべき注意義務がある
のに,出血性ショック状態に陥ったBに対し十分な輸液の実行及
び輸血用血液の手配を怠った過失。

・Bに対し,膣鏡を用いた内診や視診を行っても出血部位が発見
できず,その出血状態を速やかに回復するための措置をとること
ができないのであれば,より高度の医療措置を受けさせるべく,
人員・設備等が備わった高次の病院に直ちに転院させる注意義務
があるところ,出血性ショック状態に陥ったBを高次病院に転院
させなかった過失(転送義務違反)。

■弁護人の主張

・Bには,出血性ショックの原因となるような子宮頚管裂傷は生
じておらず,被告人がこれを見落とした過失はない。

・被告人は,出血量に応じた適切な輸液を実施しており,適切な
輸液の実施を怠った過失はない。また,医師が診察を開始できて
いない段階で輸血用血液を手配すべき義務が生じるとはおよそ考
えられない。被告人は,輸液をして全身状態の回復に努めつつ,
適切な治療を行った上で,輸血用血液の取り寄せを指示しており,
午後6時9分の時点で輸血用血液の手配をすべき義務はなく,こ
れを怠ったという過失はない。仮に,午後6時9分の時点で輸血
用血液の手配をしたとしても,輸血だけではBを救命することは
できなかったから,輸血用血液の手配とBの死亡の結果との間に
は因果関係がない。

・検察官は「膣鏡を用いた内診や視診を行っても出血部位が発見
できず,その出血状態を速やかに回復するための措置をとること
ができないのであれば」高次医療機関へ転送すべき義務があった
と主張しているから,転送すべき義務が生じるのは早くても午後
6時16分ころとなる。被告人は,輸液措置を講じており,その
効果を確認するための一定の時間が必要であり,午後6時16分
の時点で直ちに高次医療機関へ転送する必要はないとも評価でき
るが,被告人は,転送の必要も考えて連絡先を確認していた。そ
の際,Bの状態が急激に悪化し,そのまま転送することを断念し,
全身状態の回復を待って転送することを考え,全身状態の管理・
回復に努め,その一環として,D附属病院麻酔科への応援要請を
行っている。よって,被告人に検察官主張の転送義務違反はない。
また,Bを午後6時16分の時点で高次医療機関に転送していた
としても,救命が高度の蓋然性をもって可能とはいえなかったも
のであり,転送しなかったこととBの死亡との間には因果関係が
ない。

■子宮頚管裂傷を見落とした過失について

「本件では,検察官の主張する子宮頚管裂傷を見落とした過失の
前提として,そもそも,Bに出血性ショックの原因となる子宮頚
管裂傷があるかが争われているので,この点についてまず検討す
る」

「医師H作成の鑑定書(以下『H鑑定』という。)及び同医師の
証人としての公判供述によれば,Bの死因は,子宮頚管裂傷によ
る出血性ショックとされ,Bの子宮には3時から9時の方向に裂
傷が認められたとされている。H鑑定は,法医学の専門医である
同医師が,鑑定依頼に基づいて,担当医であった被告人による死
亡診断書の記載も参考として,解剖等の客観的手法を用いて,意
識的に死亡の原因解明を目的として行ったものであり,同医師が
自ら行った鑑定の結果に基づいて作成したものと認められる」

「また,被告人は,Bに対して,併用により子宮頚管裂傷を誘発
しやすい陣痛促進剤を投与するとともに,子宮頚管に人為的に拡
張作用をもたらす,クリステレル法や吸引分娩法を用いたことが
認められる。こうした事実に基づいて検討すると,Bの子宮頚管
に裂傷が存在したとするH鑑定には一応の信用性が認められる」

「 一方,証人Oは,被告人の要請に応じてAに赴き,Bの救命措
置を行った医師の1人であるところ,同人は,上記H医師による
司法解剖にも呼ばれて立ち会い,H医師から子宮頚管裂傷につい
てここがそうですというように見せてもらった記憶があるがはっ
きり分からなかった旨供述」

「また,証人Iは,D産婦人科教授で医師であるところ,助教授
であった平成17年10月ころ,H医師からBのカルテや司法解
剖時に撮影した写真を見せられて子宮頚管裂傷の有無を尋ねられ
た際,写真からははっきりしないと答えた旨,そして,H医師か
らホルマリン固定して保存されていたBの子宮標本を見せられて,
子宮頚管裂傷の存在について意見を求められた際,Bの子宮頚管
に裂傷はありませんと答えた旨供述している。そして,証人Iは,
子宮をホルマリン固定することによって,出血性ショックを起こ
すような頚管裂傷が分からなくなることはないとも供述」

「さらに,証人Jは,産婦人科医師であるところ,Bの子宮の解
剖写真を見て子宮頚管裂傷の有無を検討した限りでは,一目見て
どこが子宮頚管裂傷かは判別できなかったが,あるとすれば零時
から1時の部位に当たる位置にあるかと思った旨供述している。
また,同じく産婦人科医師の証人Kも,解剖写真によっては子宮
頚管裂傷は分からない,1時から2時くらいのところかなという
のが率直な印象である旨供述」

「そして,被告人は,公判廷においては,被告人がBに午後5時
45分ころに異常出血があった事実を助産師等から報告を受けた
後,午後6時8分ころから診察を行い,視診,触診等の方法で子
宮頚部も診察を行ったが裂傷は見つからなかったと供述」

「出産後の子宮からの出血は,胎盤がはがれた結果露出した血管
から通常見られるものであるが,頚管裂傷は,胎児の娩出時の細
くなっている子宮頚管を拡張する力の作用により,これが裂ける
現象で,動脈も損傷するため出血は鮮紅色を呈することが多い上,
出血は裂傷発生直後から持続的に生じることが多いとされている。
しかし,本件の場合,証人Cの供述やカルテ等の証拠によれば,
Bの出血は,分娩から1時間経過後の午後4時30分ころには,
40グラムの新たな出血,それもやや黒っぽい色の出血が認めら
れたにとどまっていて,出産直後からの持続的な鮮紅色の出血は
なかったと認められる」

「前項の事実に,・・・各証人の供述を総合して判断すると,B
の子宮頚管にBにおいてみられるような多量の出血を伴う裂傷が
生じていたと認めるには合理的な疑いがあるといわざるを得ない」

「したがって,検察官の子宮頚管裂傷の存在を前提とする過失の
主張は理由がない」

■輸液措置を怠った過失及び輸血の手配を怠った過失

「関係証拠によれば,被告人は,午後4時ころから,継続的に輸
液を行っており,Bの出血に対応して,午後6時16分ころから
は輸液の速度を上げている。この被告人の輸液措置が不適切であっ
たと認定するに足る証拠はない。そして,仮に被告人が実際に行
われた以上の輸液措置を実施し,午後6時9分に輸血の手配を行っ
ていたとしても,結局,出血原因が不明であったことやAの人的
・物的能力等に照らして,そのような輸液や輸血によって,確実
にBの死亡の結果を回避することができたとは認められない」

「したがって,輸液措置を怠った過失及び輸血の手配を怠った過
失があるとの検察官の主張は理由がない」

■高次医療機関への転送義務違反

「検察官の主張は,Bが,午後5時45分ころには出血性ショッ
クに陥っていたことを前提とするものであるが,弁護人は,その
時点でBに意識があり,その後,被告人が午後6時過ぎから行っ
た診察の際に会話もできていたこと等を根拠にこれを争っている。
そこで,この点について検討する」

「・・・Bについてのカルテ及び産科記録によると,午後5時4
5分にはBは・・・,収縮期血圧60mmHg,拡張期血圧は不明
であり,脈拍が1分間当たり98回の数値を示していたことが認
められる。収縮期血圧60mmHgは,一般的に重篤なショック状
態を示すと理解されており,拡張期血圧が不明というのは計測が
不能な状態に至っていたとも考えられる。また,1分間当たりの
脈拍が98回という数値は,上記のショック状態を示す脈拍に近
い数値である。そして,上記カルテによれば,Bの血圧あるいは
脈拍の異常は,午後6時43分に一時的に改善されたのを除けば
午後5時20分ころから継続していたと認められる」

「また,分娩時以後,客観的に確認されているBの出血量として
は,分娩時の300ミリリットル,午後4時30分ころの40グ
ラム,午後5時20分ころの200グラム,午後5時45分ころ
の300グラムであり,合計すると約840ミリリットルに及ん
でいるから,これだけでも,一般にショック症状が現れることが
多いとされている上記出血量800ミリリットルを超えている。
そして,量の確定はできないものの,分娩時にホスピタルマット
に吸収されていた血液もこれに加えられることになる」

「出血性ショックは,継続的な全身症状であり,時間の経過とと
もにその影響により全身症状が悪化していくものであって,その
初期の段階では直ちに患者の意識が失われたり,会話が不可能と
なるわけではない。カルテによると,Bの場合も上記のとおり午
後5時20分ころから血圧あるいは脈拍の異常が見られるように
なり,その症状は次第に増悪して午後7時35分には意識不明と
なり,午後7時53分ころからは心臓マッサージを要する状態に
なったことが認められる。したがって,被告人が午後6時8分こ
ろからBを診察した際に,同人に意識があり被告人との会話が可
能であったとしても,この事実をもって,Bがショック状態にな
かった根拠とすることは相当ではない」

「証人O,証人H,医師Kの鑑定書及び医師Lの鑑定意見書は,
カルテ等の資料に基づいて,いずれもBが午後5時45分ころに
はショック状態にあったとしている」

「以上を総合すれば,Bは午後5時45分ころには出血性ショッ
ク状態に陥っていたと認めるのが相当」

「出血性ショックは,出血に起因して臓器あるいは組織に対して
十分な酸素が供給されないことから細胞が代謝障害を来した状態
をいい,代謝障害はさらに循環障害を引き起こし,症状が進行し
不可逆期を超えると有効な症状の改善療法がなく死の転帰に至る」

「したがって,上記のような出血性ショックに対する治療として
は,症状が進行して不可逆な状態になる前の早期の段階で,原因
となっている出血を止めるとともに,臓器あるいは組織に対して
十分な酸素を供給する措置を講じて,生じている障害を改善する
必要があるとされる」

「被告人は,分娩直後に胎盤受けに溜まった300ミリリットル
の出血量を見ていたこと,ホスピタルマットに染みこんだ出血量
や午後4時30分ころの40グラムの出血についての報告は受け
ていなかったが,午後5時20分過ぎころに200グラムの出血
の報告を受け,その後,午後6時ころ,更に300グラムの出血
と収縮期血圧60mmHg,拡張期血圧は不明,脈拍1分間当たり
98回の数値の報告を受けて,直ぐに診察のためにBを分娩室に
入れるように指示し,診察に赴いている。被告人は診察に取りか
かる段階でカルテにも目を通したものと推認できる」

「そして,被告人が診察を開始し,午後6時9分にBの収縮期血
圧65mmHg,拡張期血圧58mmHg,脈拍1分間当たり61回
の数値が,午後6時15分に収縮期血圧65mmHg,拡張期血圧5
3mmHg,脈拍1分間当たり35回の数値が,それぞれその場で被
告人に報告され,被告人はこれを認識し,午後6時16分ころに
は輸液の速度を速め,子宮内容清掃術を開始」

「被告人の検察官調書によれば,被告人はBがショック状態にあ
ることを認識して,Bを再度分娩室に移して診察を始めたとする
旨の記載があり,被告人は,公判においても,午後6時9分の時
点で出血が1000ミリリットルを超える可能性があると考えて
診察を行った旨供述している」

「これらの事実に照らすと,被告人は,Bが午後5時45分ころ
から出血性のショック状態に陥っていることを,午後6時16分
には認識したと認められる」

「当時のAにおけるショック状態に対応した救命のための処置を
講じる能力についてみると,被告人の公判供述及び検察官調書に
よれば,Bの出産当時,Aには輸血用血液の備蓄はなく,産婦人
科の医師は被告人及び被告人の父親の2人であったが,父親は当
時80歳の高齢であったこと,麻酔科の専門医はいなかったこと
が認められる。こうした事実からすれば,ショック状態に陥った
Bを救命するための処置を講じる人的・物的能力はいずれも整っ
ていなかったと認められ,このことは被告人自身認識していたこ
とが認められる。そして,被告人は,午後6時8分ころから6時
16分にかけて行った診察によっても,出血原因を解明すること
はできない状態であった」

「以上からすると,午後6時16分の時点において,被告人は,
Bが出血性ショック状態に陥っていることを認識していたところ,
午後6時8分ころからの診察によっても出血原因は分からない状
態であり,Aには,このようなBのショック状態に対応して,そ
の全身状態を管理しつつ出血原因を特定して止血するための十分
な人的・物的能力が整っていないことを被告人は認識していたの
であるから,被告人としては,午後6時16分の時点で,Bの救
命のために,速やかにショック状態への対応が可能な高次医療機
関へBを転送する決断をすることができる状況にあったと認めら
れる」

「この点,検察官は,午後6時9分の時点で転送すべき義務があっ
た旨も主張している」

「しかし,午後6時9分の時点は,検察官が主張する『内診や視
診を行っても出血部位が発見できない場合に転院させるべき義務』
の前提となる診察を開始した直後の段階である。また,被告人に
およそ産婦人科医師としての能力が欠けていて,被告人が診察し
ても出血箇所を特定し,止血することが期待できないというので
あればともかく,被告人には産婦人科医師として多数の臨床経験
があること等からすると,被告人が午後6時ころの報告を受けて,
直ちにBを分娩室に入れるように指示し,分娩室において診察を
行ったことは,医師のその時点での判断として必ずしも不適切で
あったとはいえない。したがって,午後6時9分の時点で転送義
務があったということはできない」

■被告人に転送義務を怠った過失があるか否かについて

「被告人に午後6時16分の時点でBを高次医療機関に転送すべ
き刑法上の義務があり,その義務を怠ったことからBに死亡とい
う結果が発生したといえるかについて検討する」

「被告人が,Bの転送義務を怠り,Bを死に致らしめたと認めら
れるためには,被告人がその時点で転送していれば,Bの死亡と
いう結果を確実に回避できたことが合理的な疑いを入れる余地の
ない程度に証明される必要がある」

「Aは,名古屋市a区内に所在しており,救命救急医療が可能な
近距離にある高次医療機関としては,同市e区内所在のM病院等
が挙げられる。証人Oの供述によれば,救急搬送には救急車が用
いられるが,名古屋市内において出動の依頼があった場合の到着
までに要する時間は通常五,六分とされ,それから搬送先が決ま
るまで5分程度,搬送に要する時間は10分程度と見込まれる。
証人Oの上記各所要時間の根拠は,同人が日常的に救急活動に携
わっているNに問い合わせた結果であって,その信用性は高い」

「証人Oは,『一般にショック状態にあっても心臓が動いている
段階で処置をすれば救命の可能性は高い。Bの場合は,実際に心
停止になったのは午後6時15分からほぼ1時間30分後である
が,午後6時16分の時点で酸素投与と輸液等を開始しながら転
送の手続をすれば,30分から45分以内に輸血をすることがで
き,そうすれば,その心停止の時間ももっと後になる。午後6時
16分の時点で転送の手続を開始すれば,90パーセントの確率
でBを救命できた。』旨供述している。この供述によれば,転送
に必要な時間及び到着後輸血が開始されるまでの時間を多少見込
んだとしても,被告人がBのショック症状を認識し転送の判断が
できた午後6時16分に転送の手続をとっていれば,Bを確実に
救命することができたことになる。証人Oは,実際に午後8時す
ぎからBの蘇生措置を行った者であり,麻酔科医として救命救急
の分野も専門にしている医師として,自らの多数の救命救急の臨
床経験に基いて供述していることから,その供述には相当の信用
性が認められる」

「これに対し,午後6時16分に転送の手続をした場合の救命可
能性について,証人Jは,十中八九という高い確率で救命できた
とはいえないとし,証人L及び同人の鑑定意見書は,救命の高度
の蓋然性があったとは言えず,せいぜい五分五分であったとし,
証人K及び同人の鑑定書は,救命が合理的な疑いを入れない程度
に可能であったと評価するのは困難であるとしている」

「証人Jは,産婦人科を専門とする医師として,本件の捜査段階
で,検察官から依頼を受け,Bに子宮頚管裂傷が生じていたこと
を前提として,その救命のために何をすべきであったかを鑑定人
的な立場で検察官に対して説明をし,検察官調書が作成されたと
ころ,その調書の内容について確認するため尋問が行われた。証
人Jは,午後6時16分に高次医療機関への転送の措置をとって
いた場合の救命可能性について,要旨次のような供述をしている。
すなわち,検察官調書の中に,高次医療機関に転送していたら救
命可能であったとの供述の記載があるが,それは十中八九の高い
確率をもって救命できたという趣旨を述べたものではない。午後
6時16分ころに子宮頚管裂傷を発見したと仮定し,そのころに
高次医療機関に転送していたとしても,Bはいわゆる重症ショッ
クの状態になって30分以上経過しており,その段階では汎発性
血管内血液凝固症候群(DIC)を併発していた可能性も否定で
きず,多臓器不全の状況になれば不可逆的なダメージが生じ,単
純に出血点を止めて輸血だけすれば救命できるという状況でなく
なっている可能性もあるので,救命の確率については何とも言え
ない」

「証人Kは,産婦人科を専門とする医師として,被告人の依頼を
受けて,本件の診療録,H鑑定,J医師やH医師の供述調書等を
資料として,Bの出血原因や救命可能性について鑑定し,鑑定書
を作成した。証人Kは,その鑑定書において,午後6時16分に
開始した子宮内容清掃術において多量の出血が認められた時点で
高次医療機関へ転送すべきであったとした上で,その時点での救
命可能性については,不確定な要素が多く厳密に救命可能性を論
じるのは困難であり,救命が合理的な疑いを入れない程度に可能
であったと評価するのは困難と考えるとし,公判廷においても同
旨の供述をしている。そして,その理由として,典型的な頚管裂
傷があったとは認め難く,弛緩性出血の可能性もあり,その場合
でもショックに陥った後の症状の推移は急激である上,弛緩性出
血以外の別の要因,特に羊水塞栓症によるDICショックを併発
していた可能性も否定できないこと,頚管裂傷による出血性ショッ
クである場合でも,その診断は容易ではなく,転送先の高次医療
機関の医師が裂傷部位を的確に診断し止血が奏功しなければ救命
可能性は低くなること,出血原因や出血部位が確定できない場合
には,最後の手段として,開腹して子宮全部を摘出する手術を行
うが,手術そのものが侵襲であり手術による出血や血圧低下の可
能性もあること,搬送中や輸血の開始までの間に状態が更に悪化
することもあることなどを挙げている」

「証人Lは,救命救急を専門とする医師として,弁護人の依頼に
基づいて,H鑑定,カルテの記載及び公判廷における証人Oの供
述,K医師作成の鑑定書等を資料として,Bの転送による救命可
能性を鑑定し,鑑定意見書を作成した。証人Lは,その鑑定意見
書において,『妊婦は妊娠末期になると血液凝固機能が亢進する
一方で,凝固を防ぐための線維素溶解系酵素も上昇するなど,凝
固系と線溶系が非常に微妙なバランスで維持されている。このた
め,大量出血により,ひとたびこのバランスが崩れると,更なる
大量出血をきたしたり,DICをきたしやすい。分娩後出血は,
通常の外傷等による大量出血とは病態が異なっており,救命可能
性を検討する上では,他の出血性ショックと同列に論じることは
できない。』『Bのショックの持続状況から見て,多臓器不全や
急性呼吸窮迫症候群(ARDS)を起こす可能性は決して低くな
く,午後6時16分以降に高次医療機関に転送しても,心不全徴
候,それに続発する肺機能不全が起こる可能性は高く,さらに,
腎臓や肝臓も含めた多臓器不全やARDSに移行する可能性を考
えた場合に,救命できた高度の蓋然性があるとはいえず,せいぜ
い五分五分程度である。』旨述べ,公判においても同旨の供述を
している」

「証人J,証人K及び証人Lは,それぞれ産婦人科あるいは救命
救急にかかわる専門医の立場から,午後6時16分の時点で高次
医療機関へ転送の手続をしてもBを確実に救命できたとはいえな
いとしているのであるが,これらの見解もまた,各証人の臨床経
験や専門知識に基づくものであって,その内容からしても一概に
否定することはできない。そして,前述のとおり,Bの全身状態
は,午後5時20分ころから午後5時45分ころの間の出血によ
り急激に悪化し,午後5時45分ころにはショック状態に陥って
おり,午後6時16分の段階ではそのショック状態になってから
既に30分が経過していて,午後6時15分に計測された血圧や
脈拍からすればそのショック状態は重篤になっていたこと,証人
Jの供述,証人Kの供述及び鑑定書,証人Lの供述及び鑑定意見
書等の関係証拠によれば,周産期の妊婦の身体は特殊な状態にあ
り,分娩後出血による出血性ショックは,DICを発症しやすい
等の特殊性があるため,救命可能性を検討する上では,他の出血
性ショックと必ずしも同列に論じることはできないと考えられる
こと,前述の証人Oの供述は,妊婦が分娩後出血によって出血性
ショック状態にある場合の救命可能性に関する実証データに基い
ているものではないこと,Bの出血部位や出血原因は現段階でも
特定できていないことなども併せ考えると,証人Oの見解を全面
的に採用し,午後6時16分の時点で転送の手続をすれば90パー
セントの確率でBを救命できたと認めることはできない」

「以上のことからすれば,仮に被告人が午後6時16分の時点で
Bを高次医療機関に転送する手続をしていたとしても,Bを確実
に救命できたと認めるには合理的な疑いが残る。したがって,被
告人に午後6時16分の時点でBを高次医療機関へ転送すべき刑
法上の注意義務があったとは認められない」

「以上の検討結果によれば,本件全証拠によっても検察官の主張
する過失によってBを死亡させるに至ったとする公訴事実はその
証明がないことに帰する。よって,刑事訴訟法336条により,
被告人に対し無罪の言渡しをする」

■判決主文
被告人は無罪。