判例速報

※この記事は、2008-02-14にメール配信されたものと同じ記事です。
Medsafe会員各位


 今回は、dが、平成14年1月30日、被告法人の開設する被
告病院において、弓部大動脈瘤及び腹部大動脈瘤の治療のため、
弓部及び胸腹部大動脈人工血管置換術を受けたところ、3月5日、
MRSA感染に基づく敗血症性ショックにより死亡するに至った
ことについて損害賠償請求した事案です。


■年月日・裁判所
H19.12.17 東京地裁 平成17年(ワ)第14120号 損害賠償等請求事件(医療過誤)

■当事者

・原告側:原告aは、d(昭和2年生まれの男性)の妻。原告b及
び原告cは、いずれもdと原告a との間の子。

・被告側:被告法人は、被告病院を開設する社会福祉法人。被告
g医師は、平成13年12月から平成14年3月当時、被告病院
に勤務し、dに対する診療を担当した心臓血管外科医師。

■診療経過

・平成8年11月ころ、dは、h病院において、直径5cmの腹
部大動脈瘤があると診断された。

・平成9年6月2日、dは、朝から背部痛や悪心が続き、夜には
失神、失禁したため、被告病院に救急搬送され、心筋梗塞と診断
された。

・6月3日、心筋梗塞のバルーンカテーテル治療を受けた。

・6月24日、被告病院を退院。退院後、dは、定期的に被告病
院に通院し、狭心症、血圧のコントロール、高脂血症に対する投
薬等の治療を受けるとともに、以前からあった腹部大動脈瘤等に
ついても定期検査、診察を受けた。

・平成9年10月22日、dは、冠動脈造影施行、大動脈瘤精査
等を目的として被告病院に入院した。その際、dには、腹部大動
脈瘤、陳旧性心筋梗塞、慢性腎不全、高血圧が指摘された。被告
病院の担当医師は、dの腹部大動脈瘤は径6cmの嚢状動脈瘤で
あり、その大きさ及び形状からは手術の適応であると考えたが、
d及び原告らは、被告病院の担当医師から、造影剤を使用する検
査により慢性腎不全が悪化し、血液透析を余儀なくされる危険も
あるとの説明を受けて動揺し、冠動脈造影検査を受けずに、翌2
3日退院し、外来で経過観察を続けることとなった。

・平成10年2月16日、dは、腹部CT検査を受けた。同CT
画像において、腹部大動脈瘤は、最大径5cmで著変がなかった
が、大動脈と思われる白色影の中にコントラストの高い石灰化像
が認められ、大動脈外の血液成分の存在が認められた。

・平成10年5月27日、dは、左背部痛を訴えて、被告病院救
急外来を受診した。同日施行された造影CT検査では、腹部大動
脈瘤の破裂は否定的であった。

・平成12年2月28日、dは、腹部CT検査を受け、上腸間膜
動脈直下と分岐部直上に2個の大動脈瘤が認められ、前者はやや
右背側への張り出しが増大していた。

・平成13年8月12日、dは、胸部圧迫感、ふらつきを訴え、
被告病院救急外来を受診し、CT検査を受けた。CT画像上は大
動脈解離はなく、腹部大動脈瘤に著変は認められなかった。なお、
CT画像上、弓部にも動脈瘤があるように見える旨の指摘がなさ
れた。

・平成13年12月14日、dは、被告病院で腹部CT検査を受
け、腹部大動脈瘤が直径6cmであった。

・平成14年1月12日、dは、腹部大動脈瘤手術の検査目的で
被告病院に入院した。1月15日以降に施行された心臓カテーテ
ル検査、超音波検査、MRI検査等の結果、1月15日の血管造
影検査では、大動脈弓部(左鎖骨下動脈分枝部より遠位)と、上
腸間膜動脈分岐部から腸骨動脈分岐部直上までの胸腹部大動脈に
大動脈瘤が認められ、腹部主要分枝は開存しているものの下腸間
膜動脈は瘤から出ていることが判明した。また、平成13年12
月14日撮影のCT画像と平成14年1月15日撮影のCT画像
を比較し分析したところ、弓部大動脈瘤の最大径は6.5cmと
推計され、いずれも嚢状であることが確認された。さらに、1月
16日の超音波検査では、腹部大動脈に最大径6cmの瘤が認め
られた。

・1月18日、dは、MR検査を受けた。弓部に下方への瘤の突
出と、腹部に上腸管膜動脈直下から分枝上まで最大径は5cm程
度の動脈瘤の所見を報告。

・被告g医師は、d、原告a 及び原告bに対し、dの弓部大動脈
及び胸腹部大動脈に大動脈瘤があり、これらの部位を同時に人工
血管に置換する手術を行うこと、手術の際には人工心肺を使用す
ること、脳への血液循環が停止する間の脳保護のために、体温を
低下させるHCAを用いること、体温を15℃前後まで低下させ
れば酸素の消費量が36℃のときの約12分の1に低下し、約6
0分の循環停止が可能になること、手術はおそらく20分程度で
済むと思われるが、手術範囲が広がることなどにより余計に時間
がかかる可能性もあること、起こり得る合併症としては脳梗塞、
縫合部からの出血、細菌感染等が考えられること、本件手術のリ
スクは約10%であることなどを説明し、説明書を交付。

・1月26日、d及び原告aは本件手術の同意書を提出。

・1月30日、被告g医師の執刀により、dに対し、以下のとお
り本件手術(弓部及び胸腹部大動脈人工血管置換術)が施行され
た。同手術は、第4、第6肋間左開胸のアプローチにより行われ、
脳保護法としてHCAを採用。

・午前11時33分、肺動脈及び左房を脱血し、左大腿動脈から
の送血で人工心肺を開始するとともに、冷却を開始。

・午後零時53分、マンニトール、チオペンタール、ニカルジピ
ン、ラジカットの注入を開始。

・午後1時3分、人工心肺を停止し、脳及び全身の血液循環を停
止し、大動脈を切開。被告g医師は、本件手術施行前、術前の画
像所見から、弓部大動脈大弯側の動脈硬化はそれほど強くないと
予測し、左鎖骨下動脈基部1本あるいは分岐2本分を人工血管で
置換する予定で、循環停止時間を20ないし40分間程度と予測
していた。しかし、大動脈弓部を切開してみると、弓部大動脈瘤
内に潰瘍性病変が多発したうえ、多量のアテロームが存在し、動
脈硬化が予想よりも進行していたため、弓部全体を人工血管で置
換することとなった。被告g医師は、40分を経過したころから、
循環停止時間が60分を超えるのではないかと予想したが、その
まま手術を続行し、午後2時20分、人工血管の側枝と左大腿動
脈からの送血を再開した。循環停止時間は、午後1時3分から2
時20分までの77分間。

・さらに、午後3時17分、被告g医師は下行大動脈を遮断し、
その後、腹腔動脈、上腸管膜動脈、右腎動脈、左腎動脈を再建し
て、午後5時30分、下行大動脈の遮断を解除し、午後6時5分、
人工心肺を停止した。大動脈瘤壁の病理診断の結果は、動脈硬化
で血栓を伴うというものであり、2個の大動脈壁のいずれにも強
いコレステリン結晶沈着、線維化が認められ、部分的に中膜弾性
板の消失を伴い、壁在血栓とされた検体には、部位により新鮮な
血栓と器質化傾向を伴う血栓が認められた。

・1月30日午後9時ころ、dは、未覚醒のまま帰室し、翌31
日午前9時ころには呼びかけにかろうじて開眼したものの、同日
午前11時30分ころからは刺激、呼びかけにも反応がない状態
が継続した。被告病院の担当医師は、術後の抗生剤予防投与とし
て、dに対して、1月30日から2月1日までセファメジン及び
シプロキサンを投与し、同月2日及び同月3日は、セファメジン
のみを投与。また、同月2日、脳浮腫治療薬グリセオールの投与
を開始。

・dは、2月3日午前1時30分ころ、左前腋窩線付近の創から
浸出(discharge)があり、また、午前2時ころ、担当看護師によっ
て、創部のガーゼ上の汚染拡大及び膿様ないし水様の排液の存在
が確認された。また、午後5時ころにもガーゼに直径3cmほど
のうす茶色の汚染が確認され、午後10時ころにもガーゼに直径
4cmほどのうす茶色の汚染が確認された。

・2月4日午前0時、同月5日午後6時には、看護師によっても
創部のガーゼの汚染は認められなかった。

・2月7日、dには39℃の発熱が認められ、胸部レントゲン上、
左肺に胸水貯留が認められた。そこで、胸腔ドレーンが挿入され、
ドレナージされた胸水を検査したところ、胸水からはグラム陽性
球菌(2+)が検出された。そこで、被告病院の担当医師は、d
に対し、バンコマイシン1gの投与を開始した。同日、dのBU
Nは98、Cr3.3と、更に腎機能の悪化が見られた。

・2月8日、頭部CT検査が行われ、両側大脳半球皮質、皮質下、
両側基底核、尾状核に多発する低吸収域、両側小脳、後頭葉、右
頭頂葉に腫脹が認められ、多発塞栓症が疑われた。そのため、脳
浮腫治療薬グリセオールの処方が増量された。また、左鼠径部か
ら膿様の滲出液が認められた。

・2月9日、7日に採取した血液培養、胸腔ドレーン排液培養、
後腹膜腔ドレーン培養、同月8日に採取した左鼠径部創培養のい
ずれからもMRSAが検出された。

・その後2月12日まで、dは、腎機能の悪化傾向を示し、同日
のBUNは113、Crは4.5であった。

・2月14日、dにバンコマイシン1gが追加投与された。2月
12日に提出されたバルーン尿から大腸菌が、喀痰からセラチア、
MRSAがそれぞれ検出された。

・2月15日、dは、胸腔ドレーンから出血が認められ、ショッ
ク状態となった。そのため、被告病院担当医師によって、直ちに
再開胸による左内胸動脈止血手術が行われた。

・2月18日、バンコマイシン1gが追加投与された。同日、バ
ンコマイシンの血中濃度の測定が実施され、ピーク値は22.9、
トラフ値は3.5であった。

・2月19日提出されたバルーン尿から同月21日大腸菌が、同
月19日提出された喀痰から、21日ナイセリア、セラチア、大
腸菌、MRSAが検出された。

・2月21日、感染症内科へコンサルトした結果、バンコマイシ
ンを72時間毎に1g投与することとされ、同日1g、同月24
日1g、同月27日1gがそれぞれ追加投与された。2月27日
に測定したバンコマイシンの血中濃度はピーク値36、トラフ値
8.4であった。また、同月22日からは、ゲンタマイシンの投
与も開始された。

・3月3日、dは、敗血症性ショック、DIC(播種性血管内凝
固症候群)が明らかな状態となった。

・3月5日、死亡確認。

■手術適応を欠く弓部及び胸腹部大動脈人工血管置換術を実施し
た注意義務違反の有無

「原告らは,dに生じていた動脈瘤について,(1)疼痛など破裂切
迫症状はなく,(2)最大瘤径5cm以上で6か月間に0.5cm以
上拡大するものでもなく,(3)両大動脈瘤の間には正常な下行大動
脈が存在しており,連続した動脈瘤ではなく,解剖学的には分割
手術が困難でもなかったから,本件では同時手術の適応はなかっ
たものであり,被告病院の担当医師には,手術適応を欠く弓部及
び胸腹部大動脈人工血管置換術を実施した注意義務違反がある旨
主張する」

「この点につき,j医師は,本件については,まず弓部大動脈瘤
に対する手術を行い,その回復の様子を見て3か月から半年後に
腹部大動脈瘤に対する手術を行うという計画が一般的であり,同
時手術を行うべきではなかった旨の意見を述べる」

「また,重複大動脈瘤の同時手術の適応に関して,(1)一般的には
二期的手術でかつ腹部大動脈瘤手術を優先して行うことの有用性
を報告するものが多いとする文献,(2)広範囲大動脈瘤では,可能
ならば分割手術を行うのが原則であり,例外的に同時手術の適応
があるのは,解剖学的形態から分割不可能な形状を有する広範型
大動脈瘤で,かつ,I疼痛など破裂切迫症状のあるもの,II最大瘤
径が6cm以上のもの,またはIII最大瘤径が5cm以上で6か月
間に0.5cm以上拡大するものであるとする文献が存在するこ
とも認められる」

「そして,dの弓部大動脈瘤と腹部大動脈瘤の間隔は,約15〜
20cm程度であり,その間には正常な下行大動脈が存在してい
たことが認められる」

「しかしながら,この点については,以下の事実を指摘すること
ができる」

「平成9年6月2日撮影の単純CT画像上,大動脈と思われる白
色影の中にコントラストの高い石灰化像が,同日撮影の造影CT
画像上,大動脈壁を示すコントラストの低いドーナツ状白色影の
外側に,これを取り囲むコントラストの高い白色影がそれぞれ認
められ,大動脈外に漏出した血液成分の存在が認められた。また,
平成10年2月16日撮影の単純CT画像においても,大動脈と
思われる白色影の中にコントラストの高い石灰化像が認められ,
同様に大動脈外の血液成分の存在が認められた。以上から,dの
腹部大動脈瘤については,sealed rupture( 封じられた破裂)ま
たはchronic contained rupture(慢性の包含型破裂),すなわち
動脈瘤壁はすでに破綻しているが,大動脈瘤周辺の臓器に包含さ
れていることで,本来ならば遊離腹腔内に流出する血液が流出し
ないでとどまっている状態にあることが疑われたことが認められ
る。そして,被告g医師が,本件手術において腹部大動脈瘤を切
開し,その中の血栓を取り除いた際,椎体をそのまま見ることが
でき,sealed ruptureの存在が肉眼的にも確認されたことが認め
られる」

「以上の状態において,弓部大動脈瘤に対する人工血管置換術の
みを先行させれば,人工心肺装置を導入する際に投与するヘパリ
ン(抗凝固剤)によって血液の凝固作用が低下し,辛うじて破裂
を免れていた腹部大動脈瘤から大量出血が起きる危険が高まると
いうことができ,この点については,j医師も,破裂の危険性は
明らかにある旨述べているところである」

「一方,仮に腹部大動脈瘤に対する人工血管置換術のみを先行さ
せた場合,腹部大動脈瘤の前後で大動脈を遮断する必要があると
ころ,腹部大動脈瘤の中枢側を遮断することにより,より中枢側
に位置する弓部大動脈瘤にかかる圧が増大し,破裂を生じさせる
危険が高まるものといえる」

「 以上に対し,原告らは,dについて破裂切迫症状はなかったと
主張する。そして,平成10年5月27日施行の造影CT検査で
は,腹部大動脈瘤の『rupture(破裂)』は否定的であったこと,
平成13年8月12日施行のCT画像上,大動脈解離はなく,腹
部大動脈瘤に著変は認められなかったこと,診療録にsealed
ruptureについての記載はないことが認められる」

「しかしながら,平成10年5月27日,平成13年8月12日
の時点で,現実の『rupture(破裂)』,『解離』を免れていたか
らといって,破裂が辛うじて封じられていた状態であったことが
直ちに否定されるものではなく,平成9年6月2日及び平成10
年2月16日撮影の各CT画像上,大動脈外に漏出した血液成分
の存在が認められたことは前記認定のとおりである。そして,本
件手術において,腹部大動脈瘤を切開し,その中の血栓を取り除
いた際,椎体をそのまま見ることができた旨の被告g医師の前記
供述は,上記の客観的なCT所見と整合するものであることから
すれば,dには,本件手術時にはsealed ruptureの状態が生じて
いたと認めるのが相当である」

「また,原告らは,仮に平成9年や平成10年の時点で切迫破裂
の状態にあったのであれば,その時点で人工血管置換術等の治療
が実施されていたはずであり,本件手術が平成14年1月まで行
われなかったことからしても,dが切迫破裂の状態になかったこ
とが推認されるとも主張する」

「しかし・・・,被告病院の担当医師は,平成9年10月22日,
dの腹部大動脈瘤が径6cmの嚢状動脈瘤であり,その大きさ及
び形状から,手術の適応であると考えて,その旨をd及び原告ら
に説明したものの,d及び原告らが手術の実施を選択しなかった
ために,手術が施行されず,経過観察を続けることになったこと
が認められる。この点に照らせば,平成14年1月まで手術が行
われなかったことから,直ちにdの腹部大動脈瘤が切迫破裂の状
態になかったと推認することはできない」

「次に,本件手術においては,弓部大動脈瘤,腹部大動脈瘤いず
れに対しても左開胸でアプローチしているところ,分割手術を行
うとすると,後から行う手術の際には,先に行った手術により生
じる癒着のために,手技がより困難になることが認められる」

「仮に,先に弓部大動脈瘤に対する手術を胸骨正中切開で行った
後,腹部大動脈瘤に対する手術を左開胸で行ったとしても,弓部
大動脈瘤を置換した人工血管と下行大動脈との吻合部は左開胸内
に位置するから,後から行う腹部大動脈瘤に対する手術の際には,
中枢側の大動脈にアプローチするのが困難となることが認められ
る。この点については,j医師も,左胸水が溜まることによって,
左の胸腔全体に癒着が生じる可能性を否定していないところであ
る」

「さらに,先に行った手術により血行動態が大きく変動し,これ
が手術を行わなかった大動脈瘤の破裂を誘引する危険があること
も認められる」

「以上によれば,dの弓部大動脈瘤と腹部大動脈瘤は約15〜2
0cm程度離れており,その間には正常な下行大動脈が存在して
いたことを考慮したとしても,本件では分割手術を行うのに伴う
危険があったと認めることができる」

「同時手術の適応に関しては,文献上,原告らの主張する・・・
基準がある一方,遠位弓部大動脈瘤については直径5cm以上の
紡錘状動脈瘤又は嚢状動脈瘤,腹部大動脈瘤については直径4c
m以上の紡錘状動脈瘤又は嚢状動脈瘤であれば手術適応があり,
いずれの手術適応をもみたしていれば,それらの重複大動脈瘤に
対する同時手術の適応があるとの見解も存在する。このように,
原告らの主張する・・・基準が絶対的なものであるとは解されな
い。そして,本件では,平成13年12月14日,平成14年1
月15日撮影のCT画像から弓部大動脈瘤の最大径は6.5cm
と推計され,また,腹部大動脈瘤については,同月16日の超音
波検査で最大径6cm,同月18日のMR検査で最大径5cmと
され,いずれも嚢状であることが確認されており,これによれば,
上記・・・に示された適応基準をみたすということができる」

「なお,原告らは,平成14年1月18日のMR検査では,腹部
大動脈瘤の最大径は5cm程度であるとの所見が報告されたこと
から,これによれば,原告らの主張する『最大瘤径が6cm以上』
との基準を満たさないと主張するが・・・,同時手術の適応に関
しては複数の見解が存在し,原告らの主張する・・・基準が絶対
的なものであるとは解されないことからすれば,たとえ腹部大動
脈瘤の最大径が6cm未満であったとしても,直ちに手術適応が
否定されるわけではない。むしろ,腹部大動脈瘤については直径
4cm以上の紡錘状動脈瘤又は嚢状動脈瘤であれば手術適応があ
るとする前記見解によれば,手術適応は肯定されるのであり,よっ
て,上記MR検査所見を理由に同時手術の適応がなかったという
ことはできない」

「以上のとおり,本件においては,分割手術に伴う危険があり,
他方で,同時手術の適応を認め得ることに鑑みると,被告病院の
担当医師に,手術適応を欠く弓部及び胸腹部大動脈人工血管置換
術を実施した注意義務違反があるとは認められない」

■脳等の臓器の保護が不十分なもとで弓部及び胸腹部大動脈人工
血管置換術を実施した注意義務違反の有無

「原告らは,HCAにおける循環停止許容時間はおおむね20〜
40分程度であり,これを超過すると致命的な脳障害発生の危険
性が生じ,さらに60分を超えると死亡率が高まるから,被告病
院の担当医師には,本件手術に当たり,HCAの循環停止許容時
間を超過せず,またこれを超過するのであればSCPなどの保護
措置をとるべき注意義務があった旨主張する。そして・・・,本
件手術における循環停止時間は,午後1時3分から午後2時20
分までの77分間であったと認められる」

「・・・HCAを紹介したほとんどの文献において,HCAには
循環停止時間の制限があるとされていること,HCAが広く採用
されている欧米において,HCAにつき40分ないし60分以内
を安全な循環停止時間とする報告が存在すること,それらの報告
は我が国の文献でも広く引用されており,j医師も循環停止許容
時間は40分ないし60分以内であるとの意見を述べていること,
被告g医師も60分が循環停止時間の1つの目安であると認めて
いることなどを総合すれば,一般的な見解として,HCAには循
環停止時間の制限が存在し,その上限は長くとも概ね60分程度
であると考えられていることが認められる。そして,この点から
すれば,脳保護法としてHCAを選択する場合には,原則として,
循環停止時間を60分以内とすることが要求されるものと解する
のが相当である」

「これに対し,被告らは,HCAについて循環停止時間の制限は
存在しないと主張する」

「そして,(1)Svenssonらによる前記報告において,多変数解析の
結果では,循環停止時間の長さは,死亡や術後脳卒中の独立した
決定因子ではなかったとされていること,(2)Grieppらによる前記
報告において,多変量解析の結果,術後脳卒中発生の最も重要な
決定因子は,高齢であること及び血栓ないしアテロームの存在で
あり,また,死亡率はHCAの使用に関連するパラメータによっ
て影響されなかったとされていること(3)被告g医師らによるもの
として,神経学的合併症と循環停止時間との間に統計学的に著明
な相関関係は認められなかったとする2000年発表の報告,ス
ピルスマン順位相関係数テストの結果,神経系の合併症発生率と
循環停止持続時間の相関性は認められなかったとする報告,多変
量解析の結果では術後脳合併症発生のリスクファクターはCAB
G(冠動脈バイパスグラフト)の併設のみであり,循環停止時間
と脳合併症発生との間に相関関係は認められなかったとする20
02年発表の報告が存在することが認められる」

「しかしながら,Svenssonらは,前記報告において,多変量解析
の結果,循環停止時間が死亡や脳卒中発生の最も重要な決定因子
ではなかったとしても,単変量解析の結果等からして,循環停止
時間の長さは重要であるとしており,また,Grieppらによる前記
報告では,多変量解析の結果で,一時的な神経学的機能不全と循
環停止時間との間に相関関係が認められている。その上で,これ
らの各報告は,前記のとおり,安全な循環停止時間はおよそ40
分に制限され,これを超過しないのであればHCAは安全な技術
である,あるいは,循環停止時間が60分未満に保たれるのであ
ればHCAは十分な脳保護をもたらすと結論付けており,いずれ
も60分以上の循環停止時間を許容する立場に立っていないこと
からすれば,前記(1),(2)によって循環停止時間の制限が否定され
るものではない」

「また,確かに,被告g医師らによる前記(3)の各報告は,循環停
止時間の制限を観念することに対して疑問を投げかけるものであ
るということはできるけれども,他方で,前記のとおり,循環停
止時間の制限を論じたSvenssonらやGrieppらによる報告は我が国
における文献でも多く引用されており,一般的に支持されている
ものであると推認できること,被告g医師も60分が循環停止時
間の1つの目安となることは認めていることなどに鑑みれば,循
環停止時間の制限についての前記認定を左右するに足りるもので
はないというべきである」

「よって,被告らの前記主張を採用することはできない」

「そこで,本件手術において循環停止時間が77分間に及んだこ
とについて過失が認められるか検討する」

「この点について,j医師は,HCAにおける循環停止許容時間
を超えることが予測された時点(30分ないし40分が経過した
ころ)でSCPやRCPなどの他の脳灌流法に切り替えるべきで
あった旨の意見を述べている。そして,本件ではHCA下で循環
停止時間が77分間に及んだが,SCPやRCPといった他の脳
灌流法は用いられなかったことが認められる」

「しかしながら,この点については,以下のとおり指摘すること
ができる」

「被告g医師は,本件手術施行前,術前の画像所見から,弓部大
動脈小弯側の動脈硬化はかなり強いが,大弯側の動脈硬化はそれ
ほど強くなく,大弯側は弓部を全置換するほどではないと予測し
ていたため,本件手術に要する循環停止時間は大体20分ないし
40分以内であろうと考えていた。しかし,本件手術に着手した
後,弓部大動脈瘤内に多量のアテロームが存在していたこと,弓
部大動脈の動脈硬化が術前に予想していたよりも強かったことが
判明し,弓部全体を人工血管で置換する必要が生じて,そのため
に循環停止時間に77分を要したことが認められる。なお,大動
脈瘤壁の病理診断の結果でも,動脈硬化で,新鮮な血栓と器質化
傾向を伴う血栓が存在したことが認められる。そして,この点に
つき,弓部大動脈については,その解剖学的位置関係に照らし,
術前の画像診断だけでは存在するアテロームの量を明確に診断で
きないとされていることからすれば,本件手術前に循環停止時間
が60分を超えることを予測することは困難であったと認められ
る。この点については,j医師も,弓部の状態や弓部の置換範囲
を術前に予測することは難しく,HCA下で大動脈手術を施行し
た場合において,術前の見込みよりも病変が進行していたなどの
理由により,アテロームの除去や置換範囲の拡大のために手術時
間が延長し,結果的に循環停止時間が60分を超過することが不
可避的に生じ得る旨述べているところである。そして,本件手術
は,まさにそのような理由により手術時間が延長し,結果的に7
7分の循環停止時間を要するに至ったと認めることができる」

「以上に照らせば,本件手術において77分の循環停止時間を要
したことにはやむを得ない面があったということができる」

「そして,77分間に及ぶことを術前に予測することが難しかっ
た以上,g医師が,SCPやRCPを用いず,HCA単独で本件
手術を開始したことに問題があったとは認められない」

「前記のとおり,j医師は,HCAにおける循環停止許容時間を
超えることが予測された時点でSCPやRCPなどの他の脳灌流
法に切り替えるべきであった旨の意見を述べている。そして,被
告g医師は,本件手術中,循環停止時間が約40分を経過した時
点で,残りの吻合部位に照らせば循環停止時間は60分を超過す
るであろうと考えた旨供述するところ,その時点でSCPに切り
替える,あるいはRCPを併用することも技術的には可能であっ
たと認められる」

「しかしながら,SCP,RCPについては,次の欠点が指摘さ
れている」

「SCPにおいては,HCAと比較してより生理的条件に近く,
弓部操作に厳密な時間制限がなく,極端な超低体温法を併用する
必要がない点において有利であるが,弓部分枝に送血管を挿入す
る必要が生じ,粥腫,血栓塞栓症の危険があると言われている。
弓部大動脈から分岐している腕頭動脈,左総頚動脈,左鎖骨下動
脈にバルーン付きカニューレを挿入して脳への送血が行われると
ころ,特に本件のように,弓部大動脈付近の動脈硬化が強く,ア
テロームが多量に存在しているような場合には,バルーン付きカ
ニューレを挿入し,バルーンを膨らませる際に,付近に存在する
アテロームないし血管内皮から剥がれ落ちた内膜が飛散して脳血
管を塞栓する危険がある。この点については,j医師も,バルー
ンとの接触による内膜を損傷したり,アテロームを押し込む形に
なり,脳血栓,脳塞栓症を惹起する危険があることを認めている
ところである」

「また,RCPについては,循環停止の許容時間が延長され,粥
腫,血栓の弓部分枝内への塞栓予防に有用であるが,灌流が高圧
になれば脳浮腫を来すという欠点が指摘されており,虚血許容時
間をどの程度延長できるのかについても明確な結論が得られてい
ない。この点については,j医師も,静脈圧を強制的に上昇させ
灌流させることにより,組織の浮腫が惹起され,脳に幾ばくかの
障害を与えかねないという懸念があるとの意見を述べているとこ
ろである」

「そして,以上のような危険性に加え,術中にSCP,RCPを
新たに導入することにより手術時間が延長されること,前記
Svenssonらの報告によっても,脳卒中の発生率が,30〜44分
では7.5%,45〜59分では10.7%であったものが,6
0〜120分では14.6%と報告されており,60分を超えれ
ば直ちに脳梗塞が発生するとされているわけではないことを考慮
すれば,循環停止許容時間を超えることが予測された時点で,必
ずSCPやRCPなどの他の脳灌流法に切り替えなければならな
いと言えるものではなく,担当医師としては,当時の患者の状況,
超過が予測される時間,病変部の状況などを総合勘案して,より
患者への危険が少ないと判断される方法を採るべきであったと認
めるのが相当である」

「この点につき,原告らは,前記・・・のようなSCP,RCP
の欠点はすでに克服されたものであると主張する」

「確かに,SCPについて,塞栓症の危険を低下させるために,
弓部分岐部ではなく分岐部より1〜2cm程度末梢側からカニュ
レーションを行う方法も存在することが認められる。しかし,こ
れは,SCPについては,塞栓症を引き起こす危険があるとされ
ていることを前提に,そのリスクを低下させるための一方策とし
て紹介されているにすぎないものであり,これにより塞栓症の危
険が完全に防止されるものとは解されない。そして・・・,本件
手術時,dの弓部大動脈瘤内には多量のアテロームが存在し,動
脈硬化が術前の予想よりも進行していたことからすれば,本件で
SCPを採用することには,相当程度のリスクがあったと認める
ことができ,原告らの主張は採用できない。また,RCPについ
ても,高い灌流圧を避けることが術後脳浮腫対策の1つであると
する文献が存在するが,この点についても,脳浮腫のリスクが克
服されているとまでは認められない」

「そして,j医師は,これらの脳保護法にはそれぞれ利点と欠点
があり,どの方法を採用するかは,その医師の育っていく環境に
もよるとも述べているところであり,脳保護法の問題は,患者の
状況に加え,医師の当該方法に対する熟練度等も考慮したうえで,
最も危険の少ない方法が選択されるべき問題であると考えられる」

「被告g医師は,本件手術において,HCAを用いるほかに,チ
オペンタール,ニカルジピン,マンニトール,ラジカットを使用
した。このように,HCAに併せてチオペンタールなどの脳保護
剤を使用することが循環停止時間の延長をもたらし得ることにつ
いては,被告g医師らによる・・・報告が存在する」

「・・・これらの報告に照らせば,被告g医師らのグループは,
チオペンタールが超低体温によって常温の20%まで低下した脳
代謝をさらに11%まで低下させることができるなどの海外での
研究結果報告を踏まえ,チオペンタールなどの投与による循環停
止時間の延長に取り組んでおり,本件手術においては,脳保護の
ために,HCA単独ではなく,被告g医師らの研究により一定の
効果が示唆されたチオペンタールなどの薬剤により,循環停止中
における脳保護を図ったものと認めることができる」

「以上に対し,原告らは,循環停止時間延長のためにチオペンター
ルなどの薬剤を使用するのは適応外使用であり,それぞれの薬剤,
その併用による循環停止時間の延長効果についてはエビデンスが
ない旨主張する」

「確かに,能書上,チオペンタールを始めとする前記4薬剤につ
いて,循環停止時間の延長に適応があるとされていないことは,
原告ら主張のとおりである。そして,HCA下におけるバルビツ
レート系薬剤の脳保護作用について否定的な見解に立つ報告も存
在し,前記4薬剤を投与することにより循環停止時間の延長を図
ることができるという点について,コンセンサスが得られている
とまでは認め難い」

「そうすると,チオペンタールなどの前記4薬剤を投与してさえ
いれば,60分という循環停止時間の制限を超過しても問題がな
いと即断することはできない」

「しかしながら,被告g医師らの報告において,
pharmacologicalcerebroplegiaの脳保護効果が示唆されたこと,
チオペンタールが脳酸素消費量を減少させることが示唆されたこ
と,また,チオペンタール,ニカルジピン,マンニトールの併用
が弓部大動脈手術の循環許容時間を延長することが示唆されたこ
とは,前記のとおりである。そして,それらが,一定数の症例を
比較分析したものであり,エビデンスとしての価値が全くないと
まではいえないこと,被告g医師らによる報告以外にも,循環停
止中の脳保護としてチオペンタールやバルビツレート系薬剤の使
用を挙げる文献が存在すること,j医師も,前記4薬剤について,
一般的に承認されている薬効を前提として,循環停止中の脳代謝
低下,脳保護の効果を期待することは十分にできる旨証言してい
ることに鑑みると,HCAに加えて,循環停止中の脳保護効果を
期待して前記4薬剤を併用することに合理性がないとまではいう
ことができず,原告らの主張は採用できない」

「この点,原告らは,チオペンタールなどのバルビツレート系薬
剤は,全脳虚血時や脳波平坦時には脳保護効果がない旨主張し,
これに沿う内容の文献を提出する。しかし,これらがHCA下に
おけるチオペンタールなどの効果を直接論じたものでないことに
照らすと,これらによって被告g医師らによる前記報告の信頼性
が完全に否定されるものとも解されない」

「そこで,循環停止時間が60分を超えることが判明した時点で,
被告g医師が,SCP,RCPに切り替えるべき義務があったか
について検討する」

「・・・(1)dの弓部には,新しい血栓を含むアテロームが多数存
在していたこと,(2)したがって,SCPを採用することには重大
な危険が予想され,仮に分枝部から1〜2cm程度末梢側からカ
ニュレーションを行うとしても,相当程度の危険は存在したと予
想されること,(3)RCPについても脳浮腫等発生の危険が存在し,
その虚血延長時間についてもなお議論があること,(4)いずれの方
法にせよ,新たな脳保護法を採用すれば,それだけ手術時間は延
長されること,(5)一方,チオペンタールなどの薬剤を使用するこ
とによって,HCAで常温の20%まで低下した脳代謝をさらに
11%まで低下させることができるとの海外での報告が存在し,
被告g医師らの報告によって,その実効性が示唆されていたこと,
(6)Svenssonらの報告によれば,循環停止時間が60〜120分の
場合脳卒中の発生率が14.6%とされているが,45〜59分
の場合でも10.7%とされており,循環停止時間を延長するこ
とによる危険の増加と,アテロームが多数存在する状況下でSC
Pを採用することによる危険の増加と,どちらの危険が少ないか
の判断は慎重に行う必要があること,(7)術式の選択にあたっては,
その医師にとっての経験数も考慮せざるを得ないと考えられると
ころ,被告g医師は,HCAの経験数が多かったと認められるこ
と(弁論の全趣旨)に照らせば,被告g医師において,アテロー
ムが多数存在する状況下でSCPを採用するよりは,チオペンター
ルなどの薬剤を使用しつつHCAを継続する方がより危険が少な
いと判断したことが,直ちに不合理であるとは認められない」

「したがって,被告g医師において,循環停止時間が60分を超
えることが判明した時点で,SCP又はRCPに切り替えること
が義務であったとまで認めることはできないというべき」

■アテローム飛散の防止義務違反の有無

「原告らは,被告病院の担当医師には,本件手術を行うに当たり,
アテローム飛散を防ぐために,胸骨正中切開(仰臥位)によるべ
き注意義務があったと主張する」

「この点につき,弓部大動脈瘤に対する人工血管置換術を胸骨正
中切開(仰臥位)で行った場合には,循環停止中に手術操作で遊
離したアテロームは下行大動脈に落ち,順行性に血流を再開する
限り,脳塞栓源とはならないのに対し,左開胸(右側臥位)で行っ
た場合には,遊離したアテロームは上行大動脈に落ちるため,た
とえ順行性に血流を再開しても,脳塞栓の原因となり得ることが
認められる」

「しかし,左開胸(右側臥位)により弓部大動脈瘤の手術が行わ
れる場合も存在するのであり,弓部大動脈瘤に対する手術におい
て,左開胸(右側臥位)によるアプローチが一般的に禁忌とされ
ているわけではない」

「そして,本件においては,(1)弓部大動脈にアテロームが存在し
たことは,弓部大動脈を開いてから始めて判明したものであるこ
と,(2)腹部大動脈瘤にはsealed ruptureが存在し,その破裂の危
険に対処するために同時手術を選択しているにもかかわらず,胸
骨正中切開によるアプローチでは,破裂の危険がある腹部大動脈
瘤を視認できない状態で手技を行わなければならなくなること,
(3)弓部大動脈瘤へのアプローチに胸骨正中切開を用いると,腹部
大動脈瘤手術のための左開胸と合わせて2か所を切開することに
なる結果,侵襲性が高まり,また,体位変換による創汚染の危険
も高まること(弁論の全趣旨)などからすれば,胸骨正中切開に
よるべきであったとは認められない。なお,j医師は,胸骨正中
切開によった場合の利点を述べているが,これは,分割手術を前
提とした場合の意見であり,本件手術とは前提を異にするもので
あるから,上記判断を左右するものとはいえない」

「したがって,被告病院の担当医師に,本件手術を行うに当たり,
アテローム飛散を防ぐために,胸骨正中切開によるべき注意義務
があったとは認められない」

■説明義務違反の有無

「原告らの主張するとおり,被告病院の担当医師には,本件手術
前,d又は原告らに対して,本件手術に伴うリスクを十分に説明
すべき義務があったといえる」

「しかし・・・,被告g医師は,本件手術前,d及び原告らに対
し,本件手術のリスクを10%と説明したことが認められ,上記
説明義務を果たしたものと認めることができる」

「この点につき,原告らは,被告病院循環器センターのウェブサ
イトには,弓部大動脈瘤手術の手術リスクが10%である旨掲載
されており,また被告g医師の論文でも,弓部大動脈瘤手術を受
けた患者88人のうち10人(11.4%)が手術中に死亡した
と述べられているから,前記説明は,弓部大動脈瘤手術のリスク
を説明したものにすぎず,同時手術のリスクを適切に説明したも
のとはいえない旨主張する。確かに,(1)被告病院循環器センター
のウェブサイトには,『執刀医のコメント』として『特に大動脈
弓部にある動脈瘤は手術が難しいとされていますが,手術リスク
は10%と欧米の一流施設の成績を上回る好成績をだしています』
と掲載されていること,(2)被告g医師が,自らの論文において,
1991年11月から2001年2月までの間に,21歳から8
3歳までの88人の患者がHCAによる弓部大動脈手術を受け,
手術による死亡率は11.4%(88人中10人が死亡)であっ
た旨記載していることが認められる」

「しかしながら,dの弓部大動脈瘤は遠位弓部大動脈瘤であった
ところ,前記ウェブサイトに示された手術リスクは,すべての弓
部大動脈瘤手術に関してのものであり,これが遠位弓部大動脈瘤
手術のリスクを示したものであるとは認められない。そして,被
告g医師が,遠位弓部大動脈瘤手術に限定すれば,本件手術が施
行された平成14年1月までの被告病院における死亡率は約4.
4%であったと供述していること,また,平成15年の日本胸部
外科学会総会において,1991年から2003年4月にかけて
被告病院で施行した左開胸,HCAによる遠位弓部大動脈瘤手術
33例のうち病院死亡は1例(3%)であったと報告しているこ
とに照らすと,被告g医師が,遠位弓部大動脈瘤手術のリスクに
ついての上記認識を踏まえて,同時手術である本件手術のリスク
を10%と説明したことが不適切であったとはいえない」

「また,原告らは,被告g医師が,dの腹部大動脈瘤は切迫破裂
の状態でなかったにもかかわらず,dに対し,それがいつ破裂し
てもおかしくないと説明した旨主張する。しかし,dの腹部大動
脈瘤にsealed ruptureが認められ,出血を辛うじて免れている状
態であったことは前記認定のとおりであり,この点に照らせば,
被告g医師がdの腹部大動脈瘤について『いつ破裂してもおかし
くない』と説明したことが不適切であったとはいえない」

「したがって,被告病院の担当医師に手術リスクに関する説明義
務違反があったとは認められない」

「さらに,原告らは,本件手術の脳保護方法について,被告病院
の担当医師は,d及び原告らに対し,(1)HCA,SCP,RCP
それぞれの術式,利害得失,予後,(2)HCA単独でチオペンター
ルなどを投与して循環時間を引き延ばす方法を行う者はほとんど
おらず,しかもチオペンタールなどを循環停止時間の延長に用い
ることは適応外使用であり,その効果についてはエビデンスがな
いことなども説明すべきであった旨主張する。しかし,(1)どのよ
うな脳保護法を用いるかは,あくまで本件手術(弓部及び胸腹部
大動脈人工血管置換術)の施行に付随する問題であるところ,被
告g医師は,本件手術の内容,方法,合併症に関して・・・,十
分な説明を行ったと認められること,(2)手術前には,弓部大動脈
内のアテロームの状況は認識し得ず,循環停止時間を20分ない
し40分と予想して,脳保護法として,HCA単独で行う予定と
したことが不相当ではなかったこと,(3)被告g医師は,脳保護法
としてHCAを採用すること及びその原理についても説明をして
おり,脳保護法に関しても一定の説明がされたと評価できること,
(4)本件手術においては,弓部大動脈切開後に初めて循環停止時間
が60分を超えることが予想されたところ,その時点で,SCP,
RCPについて家族に説明をし,同意を求める時間的余裕があっ
たとは考えられないこと,(5)そもそもHCA,SCP,RCPそ
れぞれの優劣については定まった議論が存在せず,その選択は各
医療機関において様々であることなどからすれば,被告g医師に,
原告及びdに対して,HCA,SCP,RCPそれぞれの術式,
利害得失,予後について説明すべき義務があったとは認められな
い」

「また,被告g医師は,本件手術前,本件手術に要する循環停止
時間を20分ないし40分以内と予測していたものであり,当初
からチオペンタールなどの使用による循環停止時間の延長を企図
していたわけではないことに照らせば,チオペンタールなどを循
環停止時間の延長に用いることが適応外使用であることや,その
効果について十分なエビデンスがないことなどを説明すべき義務
があったとも認められない」

■MRSA感染防止策を怠った注意義務違反の有無

「原告らは,dが本件手術後にMRSAに感染したのは,被告病
院においてdの治療,看護に従事した者が手洗い,消毒,マスク
やガウンの着用等の感染防止策を怠ったことによるものである旨
主張する。そして,原告bは,2月14日まで,感染対策用のガ
ウンやマスクを着用している医師や看護師はいなかった旨供述す
る。また,dがCCUに入院していた1月30日当時,CCUに
MRSA患者が存在したこと,1月30日にMRSA患者の担当
であった看護師が,同日午後10時45分,dの輸血パックを受
け取ったこと,1月31日にMRSA患者の担当となった看護師
が2月2日にdの担当となったこと,病院内において医療従事者
を介したMRSA感染が起こり得ることが認められる」

「しかし,本件当時,被告病院には感染症対策のマニュアルが存
在し,同マニュアルには,手洗い,消毒,マスクやガウンの着用
等の対策事項が詳細に定められていること,被告病院において院
内感染対策の責任者を務めていたk医師が,被告病院では上記マ
ニュアルに基づいて感染症防止対策が採られており,ガウンやマ
スクの着用等が励行されていた旨証言していることからすれば,
本件当時,被告病院においては,感染防止策が採られていなかっ
た旨の前記原告bの供述を直ちに採用することができない」

「そして,同じ看護師がMRSA感染患者と他の患者を担当した
としても,時間帯が異なり,感染防止対策が講じられている以上,
義務違反とはいえないから,被告病院にMRSA感染防止策を怠っ
た注意義務違反があるとの原告らの主張は採用できない」

「なお,原告らは,dのMRSA感染経路につき,1月29日付
け手術患者申送書に『MRSA−』と記載されていることからす
れば,dは,術前,MRSAの保菌者ではなかったといえるから,
術後に被告病院の人や物を通じてMRSAに感染したとしか考え
られない旨主張する」

「しかし,MRSAは常在菌の1つであるところ,術前,dに対
して,MRSAのスクリーニングが行われたと認めるに足りる証
拠はないこと,申送書の前記記載はMRSAの感染徴候がない旨
を記載したにすぎない可能性もあり得ることからすれば,前記記
載のみをもって,dが本件手術前からMRSAを保菌していた可
能性を否定することはできない。そして,dとMRSA患者とが,
同じCCU内に滞在していた期間は,1月30日から2月1日ま
での48時間以内であり,その間,MRSA患者は個室に入室し
ており,同一時間帯に同一看護師が両者の担当者を兼ねたことは
なかったことが認められるから,したがって,dのMRSA感染
経路は不明であるといわざるを得ない。そして,文献において,
『MRSAは,既に医療環境では『常在菌』となっており,感染
予防や伝播を完全に阻止する有効な手段は見い出し難い』と指摘
されていることに照らせば,dがMRSAに感染した事実から,
直ちに被告病院においてMRSA感染の防止についての注意義務
違反があったと推認することはできない」

「原告らは,被告病院の担当医師には,dに対し,本件手術前に
MRSA保菌検査を行い,陽性であればムピロシンなどの薬剤で
除菌を行うべき義務があったと主張する」

「そして,l医師は,意見書において,MRSAは健常者の約3
0%が鼻腔等に保菌しているところ,MRSA保菌者は,心臓や
大血管の置換術等の開胸手術後に術後感染を起こす危険性が高い
ため,術前の一般的な検査,処置として,MRSA保菌の有無に
ついての検査を行い,陽性であればムピロシンなどの薬剤による
除菌治療を実施するものであり,被告病院の担当医師が術前のM
RSA保菌検査を実施しなかったのは不適切であるとの意見を述
べている」

「また,(1)CDC(米国疾病予防管理センター)によるGuideline
for Prevention of Surgical Site Infection, 1999( 手術部位
感染防止ガイドライン1999)においては,可能な限り,定時手術
の前には手術部位から遠隔した感染症を特定,治療し,遠隔部位
感染症を有する患者は,その感染症が治癒するまで定時手術を延
期することが推奨されていること,(2)順天堂大学医学部附属順天
堂医院心臓血管外科及び慶應義塾大学医学部麻酔学教室の各ウェ
ブサイトには,術前検査として,鼻腔,咽頭等の培養検査が挙げ
られていること,(3)鹿児島大学医学部・歯学部附属病院の感染防
止対策マニュアルにおいて,心臓血管外科手術に当たっては,術
前,MRSAのスクリーニングを行い,MRSA保菌者に対して
はムピロシンでの除菌を行うとの指針が示されていることがそれ
ぞれ認められる」

「しかし,他方で,『国立大学医学部附属病院感染対策協議会病
院感染対策ガイドライン』においては,鼻腔のMRSAスクリー
ニング監視培養検査は,検査精度の問題があること(陰性結果は
必ずしも微生物が存在しないことを意味しているのではない),
鼻腔のみがリザーバー(供給基地)とは限らないこと,一過性の
保菌をみている場合があること,経済的負担が増加すること,保
菌ゆえに手術を延期せざるを得ないケースは限定されていること
などの理由により,一律的に実施することは推奨されないものと
されている。また,術前のMRSAスクリーニングは,我が国で
は現時点においても保険適用が認められていないことが認められ
る。これらの点に照らせば・・・,一部の医療機関において,場
合により術前のMRSAスクリーニングが行われていることを考
慮したとしても,これが通常の医療機関で一般的に行われるべき
検査であるとは認められず,l医師の前記意見を採用することは
できない(なお,l医師も,必ずしも全ての場合に術前のMRS
Aスクリーニングを行うものではなく,これを行わない病院が存
在することを認める趣旨の証言をしている。)」

「したがって,被告病院の担当医師に,dに対し,本件手術前に
MRSA保菌検査を行い,陽性であればムピロシンなどの薬剤で
除菌を行うべき義務があったとは認められない」

「前記認定のとおり,被告病院の担当医師は,dに対して,セファ
メジンを1月30日から2月3日まで,シプロキサンを1月30
日から2月1日までそれぞれ投与したことが認められる」

「この点について,原告らは,(1)術後24時間を越えると耐性菌
選択による院内感染を助長するため,抗生剤の予防投与を行うべ
きではないとされており,上記セファメジン及びシプロキサンの
投与は,予防投与として不必要に長く,(2)大血管手術後感染予防
として通常用いられることのないシプロキサンを同時投与する必
要性はなかったとして,このような不要な抗生剤の投与がdのM
RSA感染を助長させた可能性が高い旨主張する」

「そして,l医師は,本件における術後の抗菌薬予防投与期間は
不必要に長く,術後感染予防に通常使用されないシプロキサンの
不要な投与と併せて,結果的にMRSA感染を誘発した可能性が
あるとの意見を述べている」

「さらに,(1)米国胸部外科学会の心臓外科手術後感染予防のため
の抗菌薬使用ガイドライン(The Society of Thoracic Surgeons
Practice GuidelineSeries: Antibiotic Prophylaxis in Cardiac
Surgery)上,多くの外科手術において,予防的抗菌薬の投与は術
後24時間以内で止めるべきであるとのコンセンサスが存在する
と指摘されていることが認められ,また,(2)シプロキサンが一般
的には予防的投与としては使用されない抗生剤であることは原告
ら主張のとおりである」

「しかしながら,この点については,以下の事実を指摘すること
ができる」

「前記米国胸部外科学会のガイドラインには,一般的なコンセン
サスでは,ほとんどの大きな手術について,その予防的抗菌薬投
与は術後24時間以内に止めるべきであるとされているけれども,
心臓外科手術においては,この結果は当てはまらないとされてお
り,その理由として,心臓外科手術では,人工心肺装置や低体温
療法の利用,凝固因子の低下,手術時間の長さ,胸腔チューブの
留置など術後感染症のリスクが高いこと,術後の感染性縦隔炎が
極めて高い死亡率であることが挙げられている。そして,心臓外
科医がそのために例外的といえるほど,積極的にその危険性を押
さえ込もうとするのは理にかなっており,予防的抗菌薬の投与を
術後数日間,一般的には胸腔チューブと中心静脈ラインが抜ける
まで続けると記載されている。また,k医師も,本件手術では人
工心肺が使用されており,48時間ないし72時間程度の予防投
与が必要である旨述べている」

「この点については,l医師も,抗生剤の予防投与が絶対に24
時間を超えてはいけないということはなく,個別の症例によって
はやむを得ない場合もあることを認めているところである」

「また,全ての開心術症例に対し術後5日間の抗生剤投与を基本
としているとの報告も存在する」

「以上のとおり,本件手術が心臓血管外科手術であって,人工心
肺,HCAを使用した危険因子の高い手術であったことに照らせ
ば,本件手術後,24時間を超えて抗生剤を予防投与したことが
不適切であったとは認められない」

「dについては,腹部大動脈瘤は,上腸間膜動脈分岐部から腸骨
動脈分岐部直上まで認められ,腹部主要分枝は開存しているもの
の下腸間膜動脈は瘤から出ていた。したがって,本件手術中,腹
部の血流途絶により腸管虚血が生じ,これにより腸内細菌(大腸
菌等のグラム陰性桿菌を主体とする腸間内に常在している細菌群)
が腸管壁を越えて血中へ移行し,菌血症が引き起こされる可能性
があったところ,セファメジンだけではグラム陰性桿菌を主体と
する腸内細菌には抗菌力が弱いことからすれば,腸内細菌にも有
効性が考えられる抗生物質を併用する必要性があったと認められ
る」

「また,dにはペニシリンアレルギーがありペニシリン系抗生物
質は使用できなかったため,本来であればアミノグリコシド系抗
生物質を併用するのが標準的であった。しかしながら,1月30
日から2月1日の血液生化学検査結果によれば,dのBUN,C
rは標準値を超えて推移しており,dの腎機能が低下していたこ
とが認められるのであり,この点を考慮して,アミノグリコシド
系抗生物質よりも腎機能低下の副作用が小さいシプロキサンを選
択したことにも合理性があったといえる」

「なお,前記米国胸部外科学会のガイドラインにおいても,グラ
ム陰性桿菌に対する予防を必要とする腎機能障害のある患者に対
しては,アミノグリコシド系抗生物質又はシプロキサンと同じニュー
キノロン系抗菌薬であるレボフロキサシンの投与が推奨されてい
る」

「以上の点を考慮すれば,被告病院の担当医師が,腸管虚血によ
る腸内細菌による菌血症を心配して,セファメジンに加えてシプ
ロキサンを併用したことが不適切であったとはいえない」

「したがって,l医師の前記意見を採用することはできず,被告
病院の担当医師に術後における抗生剤の予防投与について注意義
務違反があったとは認められない」

「以上によれば,被告病院の担当医師にMRSA感染防止策を怠っ
た注意義務違反があると認めることはできない」

■MRSA感染に対する治療義務違反の有無

「原告らは,被告病院の担当医師には,2月3日時点で,dにつ
いて,感染徴候を認識し,浸出液のグラム染色等の必要な検査を
実施して,血中濃度をモニタリングしながら,少なくとも1日に
つき1gのバンコマイシン投与を開始すべき注意義務があった旨
主張する」

「証拠によれば,2月3日の診療録に『左前腋窩線付近のwound
( 創部)でdischarge(浸出)』との記載があること,経過記録
(看護記録)に同日午前2時の記録として『創部G(ガーゼ)汚
染拡大あり。膿様〜水様排液あり』との記載があること,午後5
時の記録として『以前と同じ所にG(ガーゼ)汚染+うす茶色の
もの径3cm大のものあり』との記載があること,午後10時の
記録として『創部同じ部位にうす茶色のG(ガーゼ)汚染あり径
4cm程』との記載があることが認められる」

「そして,前記各記載によれば,dは,2月3日,左前腋窩線付
近の創から,膿様か水様かはっきりしないうす茶色の浸出が続い
ており,その汚染が,ガーゼ上拡大していたと認められ,これは
感染を疑わせる一徴候であるということができる。そして,仮に
感染が判明すれば,術後のMRSA感染等を念頭においてバンコ
マイシン等の有効な薬剤の投与を開始すべきであったのであるか
ら,被告病院の担当医師は,2月3日の時点で,感染症に対する
治療開始の要否を判断するために,浸出液のグラム染色を行うべ
きであったと認めることができる」

「これに対し,被告らは,2月3日の時点で感染を疑って検査を
行う義務はなかったと主張するので,以下,被告らの主張につい
て検討する」

「被告らは,2月3日における診療録の記載は,左前腋窩線付近
のwound(創部)で『discharge(浸出)』ではなく『dissect(離
開)』であり,dには2月3日時点で左腋窩付近からの浸出液漏
出は認められなかったと主張する」

「しかし,診療録の上記記載部分をみれば,問題となっている単
語の4文字目は『c』,5文字目は『h』,最後の文字は『e』
であると認められ,全体としては『discharge』との記載であると
解するのが相当である。そして,その記載に照らせば,浸出があっ
たものと認めることができる」

「被告らは,術後創感染は,手術日以降に菌が創から侵入し,そ
の後その菌が増殖し,感染徴候を示すまでには通常1週間以上は
要すると考えられており,仮に術後4日目の創から,血液,リン
パ液その他の体液の流出がみられたとしても,直ちに感染の徴候
があると判断すべきものではないから,2月3日の時点で術後感
染を疑う根拠はなかったと主張する。そして,被告g医師の陳述
書にはこれと同旨の記載がある」

「しかし,k医師が,術後1週間以内に感染徴候があった又は感
染が発生した患者を多数診療したことがある旨証言していること
に照らせば,被告らの前記主張及び被告g医師の前記陳述を採用
することはできない」

「 さらに,被告らは,看護記録における2月4日の記載は『創部
G(ガーゼ)汚染なし』,『創部G(ガーゼ)上層汚染−』であ
り,2月5日の記載も『創部ガーゼ汚染なし』であり,感染徴候
を示す所見となっていないことからすれば,2月3日当初から膿
の排出ないし感染徴候はなかった旨主張する」

「確かに,看護記録に前記各記載が存在することは被告らの主張
するとおりであり,これによれば,2月4日以降は,ガーゼの汚
染は見られなくなったことが認められる」

「しかしながら,2月4日以降の汚染が見られなかったからといっ
て,2月3日に浸出が見られたとの前記認定を覆すことはできな
い。そして,術後感染症に対する治療の開始が遅れれば致命的に
なり得ることにも鑑みると,2月3日の時点で,創部からの浸出
が認められ,膿である可能性のある排液が確認されたという具体
的状況下における判断としては,直ちに感染症に対する治療を開
始すべきかを見極めるために,浸出液のグラム染色を行うべきで
あったと認めるのが相当であり,2月4日及び同月5日の所見に
よって同月3日時点における検査義務が遡及的に否定されるもの
とはいえない」

「被告g医師は,dの創部については,被告g医師とm医師が毎
日確認し,創部のガーゼ交換も同医師らが直接行っていたが,2
月3日の朝,直接創部を確認したところ,発赤,浸出液など,特
に術後創感染を疑う所見を認めなかった旨供述する。しかし,2
月3日の診療録に『discharge』との記載が認められることは前記
のとおりであること,2月3日の午前2時,午後5時,午後10
時に浸出が続いており,この点に照らすと,被告g医師の前記供
述を直ちに採用することはできない」

「したがって,被告病院の担当医師には,2月3日の時点で,感
染症に対する治療開始の要否を判断するために,浸出液のグラム
染色を行うべき注意義務違反があったと認めることができる」

「l医師は,2月3日の時点で浸出液のグラム染色をしていれば,
グラム陽性球菌が認められ,適切な治療が開始された可能性が高
く,同時点からバンコマイシン1gを4日ないし5日ぐらいの間
隔で投与すべきであったとの意見を述べている」

「しかしながら,仮に2月3日に確認された排液が膿であり,同
時点で感染が生じていたのだとすれば,これが特段の処置なしに
直ちに改善するとは考えにくいところ,本件では,2月3日に創
部からの排液が確認された後,感染に対する特段の処置はとられ
ていないにもかかわらず,2月4日及び同月5日には創部のガー
ゼの汚染がないことが確認されていることが認められる。これに
加え,2月3日は,同月1日21000,同月2日21600で
あったdの白血球数が18800に減少したこと,同月1日に1
6.9,同月2日に16.4であったCRPが12.6に減少し
たことに照らせば,2月3日の時点で感染が生じていたかは疑問
であるといわざるを得ず,同時点で浸出液のグラム染色を行って
いればグラム陽性球菌が検出されたと推認することはできない」

「これに対し,l医師は,2月4日及び同月5日にガーゼの汚染
がみられなかったのはガーゼによる圧迫により排液が押さえられ
ていただけであり,膿瘍の広がりが表面ではなく深部に進行して
いたと考えられる旨証言する。しかし,2月3日時点でもガーゼ
による圧迫はあったと考えるのが自然であるから,同時点で一旦
は創部からの浸出が認められたことに照らすと,同日以降に膿瘍
が体表ではなく深部のみに向かって進行したとは考え難く,l医
師の前記証言は採用できない」

「また,バンコマイシンは,腎機能障害患者においては,血中濃
度の半減期が延長するので,投与量を修正して,慎重に投与する
必要があるところ,前記のとおり,1月30日から2月1日の血
液生化学検査結果によれば,dは,BUN21〜43,Cr1.
6〜3.7であり,腎機能の低下が認められたこと,2月2日な
いし3日の時点では,検査数値がBUN69〜78,Cr3.7〜
4.3に上昇しており,腎機能の低下はさらに悪化する傾向にあっ
たことが認められる。この点に照らせば,バンコマイシン投与に
よる腎機能低下の副作用を十分に考慮する必要があったといえる
から,感染の有無及び原因菌が未確定な2月3日の段階で,直ち
に少なくとも1日につき1gのバンコマイシン投与を開始すべき
義務があったということはできない」

「なお,原告らは,被告病院担当医師らが,2月3日以降もdの
感染徴候を看過した旨主張する」

「そして,dは,2月3日白血球数が一度18800に減少した
後,同月4日には23400に増加し,好中球分葉核が91.0
%と優位を示したこと,同日CRPが9.9に減少した後,同月
5日には11.9に増加したことなどが認められる。しかしなが
ら,当時は,本件手術後1週間以内の時期であって,上記炎症所
見を本件手術に伴う侵襲によるものと考えてもおかしくない時期
であったこと,2月4日,同月5日の時点における,数値の若干
の変動から,これがその後も継続する有意な上昇傾向であると見
極めることは困難と解されることからすれば,2月4日,5日の
時点で,感染症を疑ってバンコマイシンの投与に踏み切るべき義
務があるとは認められない」

「そして,その後,dは,2月1日から5日まで,体温が概ね3
6〜37℃台であったものが,同月6日に37〜38℃台に,同
月7日に38〜39℃台になっていること,CRPも2月5日に
11.9であったものが,同月6日に17.3,同月7日に20.
7に上昇したことが認められるから,これを踏まえて被告病院担
当医師が,数値の再上昇傾向を疑い,同月7日に白血球数も再上
昇していることを踏まえて,同日からバンコマイシン1gの投与
を開始したことに遅れがあったとは認められない」

「そして,dは,上記のとおり,腎機能低下傾向にあり,バンコ
マイシンについては慎重な投与が必要とされていたことからすれ
ば,被告g医師が,2月6日の体温,CRPの上昇を確認のうえ,
2月7日からバンコマイシンの投与に踏み切ったことに,感染を
看過した義務違反があったとは認められない」

「被告g医師は,同月7日からバンコマイシン1gの投与を開始
した後,さらに同月14日,18日,21日,24日,27日に
各1gをそれぞれ追加投与したことが認められる」

「この点に関し,l医師は,バンコマイシンを選択したことは正
しいが,投与量,投与間隔が不十分であり,2月3日からバンコ
マイシン1gを4,5日くらいの間隔で投与し,その後,血中濃
度を測定しながらトラフ値10〜15を目標に投与すべきである
旨供述する」

「そして,バンコマイシン投与の有効性と安全性を保つには,ト
ラフ値が5〜15μg/mLとすることが望ましいとの文献が存
すること,dの2月18日のバンコマイシンのトラフ値は3.5
μgで,有効血中濃度とされているトラフ値に達していなかった
こと,同月27日のトラフ値が8.4μgであったことが認めら
れる」

「しかしながら,この点については,以下の事実を指摘すること
ができる」

「dは,従前から慢性腎不全の既往があった。バンコマイシンは,
腎機能障害患者においては,投与量を修正して慎重に投与する必
要があり,Ccrが0.4mL/min/kgの場合6.2mg
/kg/日とされるところ,術前である1月21日のCcrは3
1.1mL/minであり,dの体重が68kgであることから
すれば,Ccrは0.46mL/min/kgであったことが認
められる。したがって,同日におけるdへのバンコマイシンの投
与適正量は,約6.2〜7.1mg/kg/日,すなわち,42
2〜483mg/日となる。そして,dの腎機能は,術前の1月
11日から同月21日のBUNが18〜23,Crが1.6〜1.
7であったのに対し,術後の2月7日時点ではBUN98,Cr
3.3と悪化しており,2月6日に比べても悪化傾向が認められ
る。以上を総合すれば,2月7日時点でのdへのバンコマイシン
の投与は,422〜483mg/日よりさらに少量に修正される
べきであるとした判断は合理的であると言える」

「また,2月7日にバンコマイシン1gを投与した後も,BUN,
Crは2月12日まで更に悪化傾向にあり,一方,CRP,白血
球数は,増加傾向を示していなかったことからすれば,被告病院
担当医師が,2月14日までバンコマイシンの追加投与をしなかっ
たことも,不合理とは認められない」

「そして,2月14日の後,2月17日ころからCRPが再上昇
してきたこと等を踏まえて,同月18日,被告病院担当医師にお
いてバンコマイシンのトラフ値の計測を行い,これを踏まえてバ
ンコマイシンの投与頻度を3日に短縮したことも不合理とは認め
られない」

「なお,腎機能障害のある患者に対しバンコマイシンを投与する
にあたっては,血中濃度のモニタリングをすることが望ましいこ
とが認められるけれども,前記のとおり,2月7日にバンコマイ
シン1gを投与した後,腎機能が悪化傾向を示していた一方,体
温,CRP,白血球数は有意に上昇しておらず,感染症状が悪化
する傾向にはなかったことからすれば,追加投与を積極的に検討
すべき状況であったとは認められず,2月18日まで血中濃度の
モニタリングを行わなかったことが,義務違反になるとも認めら
れない」

「以上によれば,被告病院の担当医師には,2月3日の時点で,
感染症に対する治療開始の要否を判断するために,浸出液のグラ
ム染色を行うべき義務に違反した過失が認められるというべきで
あるが,その余の義務違反の主張については,これを認めること
ができない」

■因果関係の有無について

「・・・被告病院の担当医師には,2月3日の時点で,感染症に
対する治療開始の必要性を判断するために,浸出液のグラム染色
を行うべき義務に違反した過失が認められる」

「しかしながら・・・,本件では,2月3日に創部からの排液が
確認された後,感染に対する特段の処置はとられていないにもか
かわらず,2月4日及び同月5日には創部のガーゼの汚染がない
ことが確認されていること,2月3日は,同月1日21000,
同月2日21600であったdの白血球数が18800に減少し
たこと,同月1日に16.9,同月2日に16.4であったCR
Pが12.6に減少したことに照らせば,2月3日の時点でdに
感染が生じていたかは疑問であるといわざるを得ず,同時点で浸
出液のグラム染色を行っていればグラム陽性球菌が検出されたと
推認することはできない」

「よって,同時点で浸出液のグラム染色を行っていればグラム陽
性球菌が検出されたとは認められず,また,同時点から少なくと
も1日につき1gのバンコマイシン投与を開始すべき義務があっ
たとも認められない」

「したがって,前記グラム染色を行うべき義務に違反した過失と
死亡結果との間に因果関係を認めることはできない」

■判決主文
(請求棄却)