判例速報
今回は、原告らの子供であるAがY病院小児心臓外科で心外膜 開窓手術を受けるため入院し、同手術に先だって行われた麻酔導 入中に同病院麻酔科のC医師、D医師、E医師の(1)挿管困難、換 気困難の予見義務違反、死亡結果回避義務違反、(2)ファイバース コープ、ラリンゲルマスク及び輪状甲状間膜穿刺の施行義務違反 (不施行)、(3)気管切開の適時施行義務違反等の不完全履行・過 失により死亡したとして、損害賠償請求した事案です。 ■年月日・裁判所 H20.4.30 京都地裁 平成15年(ワ)第2597号 損害賠償請求事件(医療過誤) ■当事者 ・原告らは、A(平成11年生まれ)の両親。Aは、本件麻酔を 受けた当時4歳2か月で、身長が80cmで、体重が9.1kg であったが、同身長・体重の程度は1歳半から2歳児と同程度で あった。Aは、GVHD(移植片対宿主病)の影響により発症し たヘルニア手術を受けた平成13年12月から身長が伸びていな いし、体重もわずかではあるが減少している。 ・被告は、本件病院を開設運営している。 ■診療経過 ・Aは、平成12年9月から、Q病院で急性リンパ球性白血病の 治療を受け、平成13年4月、末梢血幹細胞移植術を受けた。そ の後の平成14年4月ころから同手術に伴う後遺症のGVHDに よる心膜炎、心嚢液(心臓の周りの液体)貯留が発生し、心嚢穿 刺を4回受けた。 ・心嚢穿刺の効果は一時的で、1日か、2日で心嚢液が従前と同 程度に再貯留し、心エコー検査でも心臓の拡張障害を認め、心不 全治療に利尿剤の投与も続けたが、全身の浮腫も生じたため、内 科的治療ではその症状に展望が認められなかったため、同病院の Aの主治医であった医師らの紹介で本件病院のこども外来を受診 し、小児心臓血管外科を受診することとなった。 ・平成15年4月2日、本件病院のこども外来を受診し、小児心 臓血管外科を受診し、F医師の診察を受けたが、その際、本件手 術の必要性が認められ、この時点では、同月半ば以降、同手術を 受ける予定となっていた。 ・4月4日、頻脈、多呼吸に加えて心不全症状の悪化及び肺うっ 血による咳嗽、浮腫が出現したため、Q病院に緊急入院。 ・4月8日、心タンポナーゼ解除、準緊急的心嚢液ドレナージ手 術(本件手術)のため、本件病院の集中治療室に転院。10日に 同手術を受けることに決まった。小児内科の医師は、小児心臓血 管外科のL医師の依頼に応じてAを診察し、心機能、心嚢液貯留 の程度を診断するためAに対して心エコー検査をしたところ、同 検査によれば、心嚢液が全周性に貯留し、右より左の方に多く認 められた。麻酔科のO医師は、小児心臓血管外科の医師からAに 対する本件手術の際の麻酔について相談を受けたため、C医師立 会の下、Aを診察したが、その結果、小顎、開口困難による挿管 困難については可能性が低いと判断し、その旨同医師に伝えてい る。E医師は、4月10日予定のAに対する同手術の際の麻酔を 担当することになったため、Aの病室に赴いてAの診察をし、 「開口OK」、「頸部の動き頸部伸展ややしにくいが、前屈は可 能」、「下顎→小顎なし」と診断した。同診察の際、Aの家族に 問診をして、同人の日常生活の様子や体の動きなどを聞くことは なかった。 ・4月9日皮膚科の医師は、小児心臓血管外科の医師の依頼に応 じてAの皮膚症状を診察したところ、全身に紅斑、鱗屑、色素沈 着、多形皮膚萎縮症が認められた。小児心臓血管外科の依頼によ り放射線科でAに対して胸部CT検査がなされた。同検査結果を 踏まえて放射線科の医師は、(1)著明な心嚢液の貯留が認められる、 (2)胸膜の肥厚は明らかでなかった、(3)両肺にはGVHDによっ て生じた閉塞性細気管支炎によく見られる断片的な不均一性を伴 う空気貯留(排出不良)が存在する、(4)閉塞性の肺障害の有無を チェックする必要がある旨判断。 ・E医師は、4月8日、9日、GVHDと麻酔のリスクとの関連 を調べるため麻酔科の教科書の他、Pub Medというインター ネットのサイトにアクセスして文献の検索をしたが、教科書には それに関したものは見つからなかったが、GVHD病による重症 拘束性肺機能障害の子供に対する麻酔法と題する論文を見つけた。 また、同月9日、Q病院から取り寄せられた同病院での麻酔状況 が記載された全身麻酔に係る麻酔チャートを確認。同論文は重症 拘束性肺機能障害を合併した全身性GVHDに罹患している14 歳の少女に対して全身麻酔下に内視鏡的食道拡張術を行った症例 についての報告であるが、麻酔導入方法としては座位にて、調節 弁を利用して呼気終末圧を5〜10cmH2Oにコントロールしな がら、自発呼吸を維持し、セボフルレンなどの全身麻酔薬による 意識消失後、患者をゆっくりと仰臥位にし、筋弛緩薬を使用する ことなく気管挿管したとされている。また、自発呼吸を残した吸 入麻酔を選択した理由として(1)吸入気が依存的な肺に好ましい形 で行き渡るためには、横隔膜の収縮が重要だからである。横隔膜 の動きを(筋弛緩薬等で)止めてしまったり人工呼吸を行ったり するとこのパターンが破綻し、換気血流のミスマッチが起こり、 無気肺や低酸素症をもたらす危険がある、(2)最近は疑問視される ようになってきたが、従来から重篤な呼吸障害のある患者に対し て、換気量を大きくしたり高い陽圧をかけて換気したりすると、 バロトラウマ(高い陽圧をかけることにより起こる肺や気道の損 傷)を引き起こす懸念がある。強皮症や胸壁のやけどにより胸郭 が硬い患者では硬い胸郭を広げるのに高い気道内圧のピーク圧 (最大60cmH2O)を必要とし、それが原因で低酸素血症や低 血圧症が起こることがあるなどとしている。なお、E医師は、上 記検索の際、同論文のうち題名、著者、出典と短文の抄録(重症 拘束性肺機能障害を合併した全身性GVHDに罹患している症例) を見たに過ぎない。 ・本件手術にあたってのAの術前の全身状態は、その評価基準の 一つであるASAの分類によればクラス3(生活制限を要する程 度の重度の全身疾患を持っている患者)からクラス4(死亡の危 険性を伴う重度の全身疾患を持っている患者)で、挿管操作は通 常よりも短い時間しか許されない状況(予備力がない状況)であっ た。なお、ASAの分類は麻酔の危険度を示す尺度ではない。 ・本件病院の麻酔科医らは、Aについて挿管困難症例ではないと 判断し、同人に対する麻酔は本件手術の内容から全身麻酔を、ま た、全身麻酔のうち、Aの上記症状及び心臓にたまった心嚢液を 肺へのがすという本件手術の内容、呼吸状態の一持的な悪化も予 測されたため、気道確保が確実でより高濃度の酸素投与が可能な 気管挿管全身麻酔を選択。 ・4月10日7時00分ころからE医師は、手術室に入り、酵素、 麻酔ガスの配管、麻酔の正常可動のチェックなどをしたほか、ラ リンゲルマスク、輪状甲状間膜刺針などの準備をした。なお、気 管支ファイバーの準備はしていなかった。 ・9時00分ころ、手術室に赴くため病室を出た。 ・9時15分、E医師のAに対する100%酸素(流量6リット ル/分)投与の開始によって本件麻酔が開始。 ・9時20分、スーパーバイザーとして本件麻酔を担当したD医 師が副交感神経遮断薬(硫酸アストロピン0.1mg)、鎮静薬 (ミダゾラム2mg)、鎮痛薬(フェンタニル10 μ g)、吸 入麻酔薬(セボフルレン1%)のマスク投与を開始し、E医師が Aの自発呼吸にあわせてマスクによる補助呼吸を開始。補助呼吸 時の気道内圧は正常範囲の15ないし20cmH2O。 ・9時24分、D医師がAの意識消失を待って喉頭展開。その際、 喉頭蓋は直視でき、披裂軟骨部、声門部の下3分の1が直視下に 確認できた。同確認された内容はCormack/Lahane の分類でグレード2。 ・9時25分、Aに筋弛緩薬(ベクロニウム2mg)投与。筋弛 緩効果出現に伴い徐々に自発呼吸が低下し、消失したため、それ に応じてE医師がマスク換気による陽圧呼吸(自発呼吸の時点で は陰圧呼吸)を行ったが、換気が次第に困難になり、高い気道内 圧(60cmH2O以上)でようやく換気ができるという状況。な お、その時点におけるAのSpO2は100%。 ・9時30分、Aのマスクによる換気が上記のような状況で、マ スク換気で気道確保をすることが危険と判断されたため、E医師 とD医師はAに対して気管挿管をすることとし、E医師がD医師 の補助の下、いずれも直視できた披裂軟骨部を目安にチューブの 太さなどを変えながら2回気管挿管を試みたが気管入口部から先 に進まず挿管できなかった(ただし、いずれの時点でも声門部は 直視できなかった。)。なお、この時点におけるAのSpO2は 100%。 ・9時31分、D医師がE医師から交代してAへのマスク換気を 行うこととなったが、Aに対する同換気は高い気道内圧(60c mH2O以上)の下でようやく換気ができるという状況で困難であっ た。D医師がC医師の補助の下、E医師と同様直視できた披裂軟 骨部を目安にチューブの太さなどを変えながら2回気管挿管を試 みたが気管入口部から先に進まず挿管できなかった。なお、この 時点におけるAのSpO2は100%。 ・9時33分、C医師がAに気管挿管を試みたが気管入口部から 先に進まず挿管できなかった。Aの換気をマスク換気に戻すとと もにC医師は、その場にいたP医師に気管支ファイバーをセット するよう指示をした。C医師とD医師がAへの気管切開を決断し、 耳鼻科のH教授と麻酔科のI教授に応援を依頼し、他の手術室に いた心臓外科のJ医師に緊急気管切開手術を依頼した。この時点 におけるAのSpO2は100%。 ・9時35分、J医師は、緊急気管切開手術を施行した。この際 も上記高い気道内圧の下、マスク換気を継続していたが、AのS pO2が同手術直前に40%台まで低下し、心電図上も除脈が認 められた。そこで、直ちに閉胸式心マッサージ実施。 ・9時37分、麻酔科学教室のI教授とK助教授がほぼ同時に到 着し、Aの状況を確認した。I教授がAに対してマスクによる換 気を行ったが、換気することができなかった。これ以上、同人に 対する気管挿管操作は喉頭部の浮腫を助長する危険性があり無謀 と判断され、緊急気管切開手術を優先。 ・9時45分、J医師がAの上記気管切開口部から3.5mmの チューブを挿入し、それを通じた換気を開始したが、高い気道内 圧でかろうじて換気ができるような状況であった。気道が確保で きたことで心電図上Aの自己心拍が回復したが、瞳孔散大、対光 反射消失になった。 ・9時48分、同チューブより赤い血性分泌物の逆流が多量に認 められ、E医師が3回、気管内吸引をしたが軽減することなく、 Aは、バギング(用手換気)によりかろうじて換気ができる状態 から換気不良となり低酸素血症となった。その後、Aは、再び、 心電図上除脈が認められ、心停止となったため心マッサージが再 開されたり、強心薬が投与されたりしたが、換気の改善は認めら れず、再び瞳孔散大、対光反射消失になった。 ・11時48分、Aは、心マッサージや人工呼吸を受けたが、同 時刻に換気不能のための低酸素血症から死亡。 ■Gカルテ部分等と本件麻酔チャートの信用性 「原告は,Gカルテの信用性が高く,その記載内容に従った事実 が認められるべきである旨主張する。確かに,本件麻酔時に手術 室にいたG医師が記載したGカルテには・・・原告らの主張に沿 う記載があるところ・・・,G医師は,本件麻酔当時研修医であっ たが,本件手術の見学のため同手術が施行される手術室にいたこ と,その際の9時45分ころ,指導医のL医師からAに対するカ ルテを記載するよう指示されてその記載をしたことが認められる」 「ところで,G医師は,Gカルテ記載にあたって同記載の指示を 受ける前はカルテ記載の意図はなく単に見学をしていたものに過 ぎないうえ,同指示を受ける以前の部分はその場での記憶を基に まとめて記載している。特に,本件麻酔時,Aへの気管挿管困難 な事態が生じ,その指示を受けた当時,気管切開が終了したころ で,そのような緊急事態時であった。以上の事実を踏まえると, G医師が分刻みの時間を正確に記憶できたとは考えがたい。また, 同カルテによれば,9時30分より前にAに除脈が認められた, また,ECG波形検出せずということになっているが,同各記載 は・・・Aには9時30分以降も心拍が認められ,特に,同分に 1分間で154回の,また,同時35分に1分間で146回の心 拍数が認められたことと矛盾する内容となっている。以上の事実 を踏まえるとGカルテの9時45分以前の記載,特に,時間の記 載は直ちには採用し難い」 「証拠及び弁論の全趣旨によれば,本件麻酔を担当していたE医 師は,その当初から担当医として麻酔チャートを書くことが予定 されていたところ,同予定に従って本件麻酔チャートの大半の記 載をしていること(一部D医師の記載がある。),麻酔チャート は基本的にはその時々の処置や対応がなされた場合にはその際に 記載することが要請されていること,本件麻酔チャートも本件麻 酔時に記載されたことが認められるところ,以上の事実に同記載 内容が上記心拍数などのモニターの数値と矛盾することがないこ とを総合すると,時間の記載を含めて同記載内容は基本的には採 用することができる」 ■喉頭浮腫があったか否か 「原告は,E医師の1回目の気管挿管によりAの喉頭(声門部) に浮腫を生じさせ,その結果,声門部の閉塞を生じさせた旨主張 する。確かに,E医師は,2回気管挿管を試みたが,いずれも挿 管不能に終わっているうえ,Gカルテには10時10分の欄に 『喉頭浮腫著明』との記載があり,また,看護師の手術指示と連 絡票と題する書面にも一旦『edemaみられ』と記載されてい るし(ただし,後にその記載の上に線を引いて抹消している。), 本件病院の麻酔科医らも本件麻酔の際やその後,家族らに換気困 難の原因について浮腫の可能性を説明している」 「しかし,本件で行われたAに対する病理解剖の結果・・・,喉 頭部の声門下には浮腫がなく,狭窄がなく,気管にも浮腫が認め られなかった」 「そうすると,原告らの同主張は理由がない」 「原告らは,E医師の気管挿管によりAの声門部に浮腫が生じた ことを前提として同浮腫が医師の同挿管の際の手技ミスによって 生じた旨主張するところ,その前提事実が認められないことは・ ・・認定したとおりである」 「そうすると,原告らの同主張は理由がない」 ■術前診察,評価の適切性 「原告らは,Aの呼吸・循環機能が非常に悪く,不安定で,GV HDによる慢性の閉塞性細気管支炎による重症の閉塞性肺機能障 害に罹患していたのに本件病院の麻酔科医らは,Aに対する本件 手術前の麻酔(方法,内容を含めて)が適切になされるよう術前 に当然なすべきこと,具体的には,動脈血ガス分析,Aの両親か らAの現病歴などの問診,肺炎の有無や気管狭窄の程度などを確 認するため,Aに対する聴診,同人の皮膚障害などに対する評価 をしていないなどAに対する術前評価義務を怠った旨主張する」 「麻酔科医は・・・,当該患者に対する手術が適切に遂行される ようにするため手術前に麻酔(方法,内容を含めて)が適切にな されるよう,呼吸器系及び循環器系に重点を置いて診療を行うこ とが求められるところ,具体的には本件麻酔のように気管挿管が 予定される場合には挿管困難性がないか,また,換気困難性がな いかなど患者に対する適切な術前評価をなすべきことはいうまで もない。特に,小児の場合,成人と違い無呼吸に対する許容時間 が少なく,麻酔投与後,気道確保までに時間がかかると致死的な 状態になりうるため,きっちりした術前評価が必要である」 「Aが本件病院に入院した4月8日,小児科のカルテにも,また, 小児心臓血管外科のカルテにも肺疾患に関する記載はなく,かえっ て,『呼吸清明ラ音なし』『肺音清明』との記載がある。また, 本件手術にあたってAの母親である原告B作成に係る問診票が作 成されていること,本件病院の麻酔科医は,本件手術にあたって ・・・術前にO医師,C医師のほか本件麻酔を担当したE医師も Aを直接診察して同人の下顎の状況,舌の大きさや動き,首の太 さ,頸椎の可動性と屈曲,伸展の状況などを確認し,また,E医 師は,Aの1年あまり前のQ病院での全身麻酔を受けた際の麻酔 チャート(Aに肺機能障害があることの情報は記載されていない。) も確認しているうえ,同人が罹患していたGVHDと麻酔のリス クを確認するため教科書やインターネットでの文献検索もして術 前評価をしている。以上のE医師を含む本件病院の麻酔科医らの 行為は挿管困難性などに着目した術前評価として相当な行為であ る。しかし,同問診票は本件麻酔に着目して作成されたものでは なく,本件病院の麻酔科医らは,本件手術にあたってAの両親か らAの日常生活などの状況も含めて麻酔科の立場から問診をして いないこと,また,患者の酸素化能の予備力評価の有効な手段で ある動脈血液ガス分析をAに対して施行していないことが術前評 価の前提行為として相当であったか問題の残るところである」 「ところで,術前評価の前提としての問診であるが,意図された 手術を施行する医師と同手術の麻酔を担当する麻酔科医との間で 問診の対象として患者ないしその家族らから聴取する部分には共 通するものもあるが,それぞれの立場から注意すべき部分,着目 すべき部分もあることからすると麻酔科医としての立場からその 方法は書面,口頭など必ずしも問わないが問診も尽くすべきこと が要請されているというべきである。特に,Aが罹患していた慢 性GVHDと麻酔のリスクについては本件麻酔当時,慢性GVH D本態の病理研究,その発生抑制と治療の研究まではなされてい たものの慢性GVHDに対する緊急的手術の際の麻酔や呼吸管理 の安全のための医学的知見は手探り状態で,いまだ確たる指針や 方法が本件病院のような最高水準の医療を提供することが予定さ れているところでも一定の知見として確定していなかった状況で, そのような状況下においては問診による情報収集も必要であった といわなければならない。しかし,本件病院の麻酔科医らは,そ れをしなかった不完全履行ないし過失があるというべき」 「Aは,病理解剖の結果・・・,GVHDに合併した慢性の閉塞 性細気管支炎が認められたうえ,本件麻酔前のCT検査の結果で も両肺にはGVHDによって生じた閉塞性細気管支炎によく見ら れる断片的な不均一性を伴う空気貯留(排出不良)が存在したこ と,そのことから放射線科医が閉塞性の肺障害の有無をチェック する必要がある旨判断していることがある。以上の事実を踏まえ ると,Aに対しては呼吸・循環の状態(酸素化能の予備力など) 評価に有効な手段とされる動脈血液ガス分析を可能な限り施行す ることが求められていた。ところで,同施行にあたっては呼吸機 能検査(ただし,Aにそれを施行することは難しい。)ほどの協 力を患者に必要とせず,Aを押さえつけて大腿動脈から採血をす ればその目的を達することができる。仮にAに対してそのような 態様をとった場合,同人が泣き叫び,暴れ,ただでさえ悪い呼吸 循環の状態がより悪くなり,採血ができない場合には同ガス分析 を行うことはできないが,同動脈血の採取方法,Aがこれまでの 病歴から注射や点滴などを何度も経験してきていることを踏まえ ると,Aに対して同ガス分析は施行すべきであった。しかし,本 件病院の麻酔科医は,それをしなかった不完全履行ないし過失が あるというべき」 ■Aの気管挿管困難性及び換気困難性に係る各予見義務違反と死 亡結果回避義務違反 「原告らは,本件病院の麻酔科医らがAの本件麻酔当時の症状か らして同人への筋弛緩薬投与後,挿管困難の原因が何であれ,少 なくとも挿管困難が生じることが予見することができたにもかか わらずその予見をしなかった旨主張するところ・・・,意見書は 挿管困難が10%程度予想される旨述べる。ところで,原告らの 同主張は当該症例で挿管困難が具体的に予見できない場合でも原 因不明などでも挿管困難が発生する危険性があるため,それを踏 まえてその困難性を予見すべきであると主張するものであるが, 民事上の不完全履行ないし過失は具体的な予見可能性を前提とし て予見義務に違反する行為をいうものであって,仮に原告らの主 張を認めるとすると抽象的な可能性を前提として予見義務を認め るという無過失責任を認めることになり,また,常に挿管困難を 予見して十分な体制をとることを医療側に強いるものであって, 法的な観点からの予見義務としては採用しがたい」 「ところで,Aに対する気管挿管は不成功に終わっているうえ, Aは,筋弛緩薬投与前,GVHDに罹患し,その症状として慢性 心膜炎を発症し,心嚢液が貯留し,心タンポナーゼによる循環不 全,呼吸不全があり,慢性GVHDによる皮膚の硬化や関節拘縮, 脊椎側弯があり,頸部に可動域制限があり,成長不良であった」 「しかし,Aは,筋弛緩薬を投与した後気管挿管をする前に換気 困難が生じたこと,E医師を初め5回,気管挿管を試みたが,い ずれも気管入口部から先に進まず挿管できなかったこと,Aの気 管部分には気管挿管を困難とするような浮腫が認められなかった こと,気管切開後も換気困難が生じたこと,病理解剖記録には 『後部声門開大不良』との記載があるところ,以上の事実に証拠 を総合すると,声門は,通常であれば筋弛緩薬投与によって開く のに,本件においては,必ずしも原因は明らかでないが,少しの 空間を空けてほぼ正中位にとどまり,それによって気管挿管の困 難が生じたことが窺われる。以上の事情に本件麻酔以後も慢性G VHDに罹患している患者に対して筋弛緩薬を使用した症例報告 があることを踏まえると本件麻酔時に筋弛緩薬の投与によりAの 声門がそのような状況になることを予見することは困難である」 「また・・・,一般に顎が小さい人,口が小さい人,太っている 人,首が太く短い人,歯がでている人,下顎や口腔の手術歴があ る人,リュウマチを有する人の場合はいずれも気管挿管が困難で あることが予想され,また,グレード3の者は気管挿管が困難で あることが予想される。しかし,Aは,本件手術前の診察によっ ても『開口OK』,『頸部の動き頸部伸展ややしにくいが,前屈 は可能』,『下顎→小顎なし』と診断されているうえ,D医師が 最初に行った喉頭展開でもグレード3ではなく声門下3分の1が 直視できるというグレード2,低く見ても2ないし3の程度であっ た」 「以上の事実からすると,Aについて,本件麻酔時の症状からし ても気管挿管が困難であると具体的に予見することは難しく,そ の他,同困難性を具体的に予見できたと認めるに足りる証拠はな い」 「原告らは,AがGVHDに罹患し,術前のCT検査の結果から も閉塞性細気管支炎の精査が申し送られるなど呼吸状態はかなり 悪化していたところ,Aの同症状からすれば,本件病院の麻酔科 医,少なくともD医師は,本件の筋弛緩薬投与前,その原因を閉 塞性肺障害に特定するかどうかはともかくとしても換気困難の可 能性を予見できたというべきである旨主張する」 「確かに,筋弛緩薬投与後,気管挿管を試みる前にAについて換 気困難な状況が発生したこと,Aは,慢性GVHDにより術前の CT検査の結果からも閉塞性細気管支炎の精査が申し送られるな ど呼吸状態はかなり悪化していた。また・・・,意見書はAにつ いてその臨床症状から換気困難についてある程度予測できた旨記 載している。しかし・・・,Aが罹患していた慢性GVHDと麻 酔のリスクについては本件麻酔当時,慢性GVHD本態の病理研 究,その発生抑制と治療の研究まではなされていたものの慢性G VHDに対する緊急的手術の際の麻酔や呼吸管理の安全のための 医学的知見は手探り状態で,いまだ確たる指針や方法が本件病院 のような最高水準の医療を提供することが予定されているところ でも一定の知見として確定していなかった状況下であった」 「また・・・,意見書は,同記載の後,筋弛緩したときに換気が できなくなることは本件・・・論文に行き当たらなければ難しい 旨記載しているところ・・・,同論文で取り上げられた患者はA とは相違する重症拘束性換気障害を合併した患者で,Aの肺症状 と比較すると過去3年間に何度も肺合併症のため入院治療を受け, 日常でも夜間は人工呼吸器での補助呼吸を継続しているより重症 度の高い患者である。以上のようなことからすると,同文献の内 容をもってしても,本件病院の麻酔科医らがAについて換気困難 を具体的に予見できたとは認めがたく,かえって,具体的に予見 できなかったことが窺われる」 「Aについて,筋弛緩薬投与後,マスク換気困難が生じているが ・・・,本件麻酔時の症状からしても筋弛緩薬を投与した場合, マスク換気が困難になることを具体的に予見することは難しく, その他,同困難性を具体的に予見できたと認めるに足りる証拠は ない」 「そうすると,原告らの,上記挿管困難,換気困難の予見可能性 の主張は理由がなく,また,同各困難を基礎とする死亡という結 果回避義務違反の主張も理由がない」 ■気管支ファイバーの不使用 「原告らは,換気困難に陥った場合,その段階でASAのアルゴ リズムにしたがった処置を行うべきところ,Aの自発呼吸は筋弛 緩薬によって消失し,それに伴って換気困難になると低酸素症に 陥る危険性があったとして,事前に気管支ファイバーを準備し, 同人に対するこれ以上のマスク換気での気道確保が危険と判断し た時点,遅くともE医師の2回にわたる挿管ができなかった時点 で挿管困難と判断し,直ちにファイバースコープを実施すべきで あったのに,同医師らは,ファイバースコープを準備することも なく,そのような処置もとらず,更に気管挿管を繰り返した旨主 張するところ・・・,意見書もASAのアルゴリズムによれば, 換気困難時には気管支ファイバーとラリンゲルマスクを使用する ことがいわれており,本件においても気管切開は最後の手段で, E医師が2回経口挿管に失敗した時点,あるいは遅くともD医師 が2回失敗した時点で換気困難となった直後にラリンゲルマスク あるいは気管支ファイバーを使用(同スコープでのぞき,ラリン ゲルマスクを使用して換気を行う場合も含む。)して換気を試み ておけばと思う旨記載している。確かに,本件病院の麻酔科医ら は,本件麻酔に当たって気管支ファイバーを準備していなかった し,また,Aに対して気管支ファイバーを使用していない」 「しかし,気管支ファイバーは熟練者でさえその挿管を成功させ るには通常数分かかるため,重篤な低酸素血症に対して緊急の気 道確保を要するときは他の方法によるべきであり,気管支ファイ バーを用いた挿管は全身麻酔下では意識下に比較してやや難しく, 『まず吸入麻酔薬による緩徐導入(筋弛緩薬なし)か,意識下に おいて正しい咽頭展開を試みる』としている文献もあるほか,小 児の気道管理については,喉頭蓋が成人よりも長くて硬く,より 水平に近い形で横たわり,およそ8歳未満では,輪状軟骨が気道 の最も狭い部分であり,気管チューブ挿入の安全域は狭くなると されているうえ,基本的にはそれを受ける患者の自発呼吸が可能 な状況にあることが前提である。Aは,同換気困難時,筋弛緩薬 投与後で自発呼吸が認められない状況で,4歳2か月であったが, 身長及び体重は1歳半から2歳児と同程度であって口腔内スペー スが狭く,気管支ファイバーの視野が妨げられる危険性があった こと,当時の同人の酸素予備能,また,本件病院の麻酔科医らが その当時,気管挿管のためのチューブが通らない原因がAの声門 部にあると考えたことからすると,本件病院の麻酔科医らがその 時点で気管支ファイバーを使用せず,気管切開の判断をしたこと について,直ちに不完全履行ないし過失があるとまでいうことは できず,その他,そのことについて不完全履行ないし過失を認め るに足りる証拠はない」 「そうすると,原告らの同主張は理由がない」 ■ラリンゲルマスク及び輪状甲状間膜穿刺の不使用 「原告らは,被告の麻酔医らがAに対するこれ以上のマスク換気 での気道確保が危険と判断した時点,遅くともE医師の2回にわ たる気管挿管ができなかった時点で挿管困難と判断し,直ちにラ リンゲルマスク及び輪状甲状間膜穿刺を実施して気道を確保すべ きであったのにそれを怠った旨主張するところ・・・,確かに・ ・・,換気困難時,気管挿管を3,4回試行して不成功に終わっ たときラリンゲルマスク挿入による気道確保を試みることが同ア ルゴリズムにもっともよく沿った対応と考えられる旨記載してい る。しかし,本件病院の麻酔科医らは,本件麻酔時,手術室にラ リンゲルマスクを準備していたが,Aに対する気管切開不成功の 後,ラリンゲルマスクを使用していない」 「ところで,本件病院の麻酔科医らは,気管挿管不成功後,直ち に気管切開の施行を決め,実際にもそれを施行しているところ, マスク換気不能時などの緊急の気道確保を要するときは最後の手 段としてではなく直ちに外科的気道確保の方法としての気管切開 を施行することも選択肢として認められているうえ,Aは,酸素 化の予備能が低く速やかに気道確保をしなければならなかったこ と,E医師の気管挿管不成功によりAの気管や声門部での浮腫が 想定されたことからすると,ラリンゲルマスクを使用しなかった ことについて直ちに不完全履行ないし過失があるとまでいえず, その他,それを認めるに足りる証拠はない」 「輪状甲状間膜穿刺であるが,Aのような小児の場合,成人に比 すると輪状甲状靱帯に確実に刺することは手技的に難しいうえ, ・・・意見書も鑑定結果も,輪状甲状間膜穿刺も選択肢の一つ として考慮することを指摘しているにすぎず,まずそれによらな ければならないということを指摘しているわけではないこと,上 記ラリンゲルマスクの不使用について説示した事情を踏まえると, 輪状甲状間膜穿刺をしなかったことについて直ちに不完全履行な いし過失があるとまでいえず,その他,それを認めるに足りる証 拠はない」 「そうすると,原告らの同主張は理由がない」 ■気管切開の時期に係る不完全履行・過失 「原告らは,筋弛緩薬の薬効によりAの自発呼吸が消失し,遅く とも9時28分には換気が困難となり,9時30分の時点でSp O2が45%になっていたとして,同人に対する気管切開はE医 師による挿管ができない,挿管困難が明らかとなった時点で開始 すべきであったにもかかわらず,その後も気管挿管にこだわり, 9時35分までいたずらに時間を費やした旨主張する」 「しかし,Aの自発呼吸が消失し,SpO2が40%台になった のは・・・Aに対して9時35分に施行された気管切開の直前で あった」 「ところで,本件病院の麻酔科医らのAに対する気管切開への判 断は未だ同人のSpO2が100%を示していたときに判断され たものであったところ・・・,本件病院の麻酔科医らの気管切開 の判断に遅延があったとは認められず,その他,それを認めるに 足りる証拠はない」 「そうすると,原告らの同主張は理由がない」 ■説明に係る不完全履行・過失 「原告は,本件病院の麻酔科医が本件手術に先立ってAの家族に 直接麻酔の内容,そのリスクとしての困難性や換気困難の可能性 などについて説明をすべきであったのに,その説明をしなかった 旨主張する」 「ところで,手術を行う際には必ずそれに先だって麻酔が施行さ れるところ,手術を行う場合に手術施行者の他,必ず麻酔科医が 麻酔について説明をしなければならないことはない。しかし,A のように慢性のGVHDという重大な疾患に罹患し,呼吸状態が かなり悪く,酸素化能の予備力が少ない患者に対して麻酔を行う ような場合で,しかも同人が罹患していた慢性のGVHDと麻酔 のリスクについては未だ臨床医学的に未解明で一定した知見が存 在していない状況下にある場合には,少なくとも麻酔科医が麻酔 科医としての立場から本件手術の術者とは別に患者ないしその家 族に対し,患者の状況,採用した麻酔の方法・内容,その危険性 の内容・程度,慢性のGVHDと当該麻酔との関係(知見の状況 も含めて),一旦麻酔を導入しても引き返すことがありうること などを具体的に説明すべきことが要請されている。しかし,本件 病院の麻酔科医らは,Aの両親に対してその説明をしていないと いう不完全履行ないし過失がある」 ■損害額 「原告らは,本件病院の麻酔科医らの不完全履行ないし過失によ りAが死亡したことを前提として同人及び原告らが被った損害に ついてその賠償を求める。しかし,Aの死亡と因果関係が認めら れる過失ないし不完全履行は・・・認められない」 「ところが,本件病院の麻酔科医らにはAの死亡との間では相当 因果関係が認められないものの上記・・・で説示したとおり問診 義務違反,動脈血ガス分析の施行義務違反(未施行),また,上 記・・・で説示した説明義務違反があるところ,同各義務違反に よって原告らは,Aに対する適切な診療がなされなかった,治療 方法の選択について自己決定ができなかったなど精神的苦痛を被っ たことが推認されるところ,同精神的苦痛を金銭的に評価すると 原告らそれぞれについて250万円とするのが相当」 「原告らは,本件訴訟の提起,遂行を原告ら代理人である訴訟代 理人に委任している(顕著な事実)ところ,同事実に本件訴訟の 経過,上記損害賠償の認容額などを総合考慮すると,同認容額の 1割相当額の各25万円をもって上記不完全履行と相当因果関係 のある弁護士費用相当の損害とするのが相当」 ■判決主文 1 被告は,原告らそれぞれに対し,各275万円及びこれに対す る平成15年4月10日から支払済みまで年5分の割合による金 員を支払え。 2 原告らのその余の請求をいずれも棄却する。 <以下略>