判例速報
今回は、平成12年10月31日、被告が、腹痛を訴えてDク リニックを受診した原告Aに対し、点滴ボトルの下にある三方活 栓から筋弛緩剤であるマスキュラックスを原告Aの身体に故意に 注入して原告Aを呼吸困難に至らしめるという不法行為を実行し、 その結果、原告Aが無酸素脳症となり現在も意識が戻らず重篤な 後遺障害のため植物状態にあるとして損害賠償請求した事案です。 ■年月日・裁判所 H20.5.27 仙台地裁 平成14年(ワ)第1054号 損害賠償請求事件(筋弛緩剤混入 事件) ■当事者 ・原告Aは、平成元年、父原告B、母原告Cの長女として出生し、 両親に養育されて生活していた。平成12年10月当時の年齢は 11歳で、体重は約30キログラム。 ・被告は、平成11年2月から平成12年12月まで、訴外医療 法人社団Eが設置管理していた診療所であるDクリニックにおい て、准看護師として勤務していた者。 ■診療経過 ・平成12年10月31日、原告Aは、腹痛や吐き気を訴えるな どしたため、午後6時少し前ころ、Dクリニック小児科を受診し、 同病院の副院長であるH医師の診察を受けた。このとき、原告A の熱は36.6度であり、胃の辺りを手で押さえながら「お腹が 痛い。」と訴えていた。原告Cは、H医師に、原告Aが学校で給 食を食べた後お腹が痛くなり、夕方には3回ほど吐いてしまった こと、軟らかい便を1回したことなどを伝えた。H医師が診察し たところ、原告Aの呼吸音は清明で心雑音もなく、腹部からグル 音も聞こえず、咽頭部に軽い発赤が認められるだけであり、意識 は清明であった。また、原告Aは、右下腹部の圧痛が強い様子で あったが、筋性防御は認められなかった。 ・午後6時ころ、原告Aに対してレントゲン撮影及び尿検査が行 われ、その結果、レントゲン写真上、右下腹部にガスが少し集まっ ている所見があり、また、尿検査では、体調が悪い場合に体内物 質が分解して尿に排泄されるケトン体がプラスマイナスの反応で あった。原告Aは、レントゲン撮影の際、お腹を痛がり、前屈み になってはいたが、自ら歩いて移動。 ・H医師は、上記検査結果を踏まえても、原告Aの症状が胃腸炎 によるものか虫垂炎によるものかを判断しかねていたが、虫垂炎 である疑いもあり、そのときは虫垂に穴が空いて腹膜炎を引き起 こすおそれもあったことから、原告AをDクリニックに入院させ ることにした。原告Aと原告Cは、入院の準備ができるまで、D クリニックの談話室で待機。 ・午後6時30分ころ、H医師は、原告Aに関する指示箋に採血 と点滴の指示を記載した。点滴に関しては、生理食塩水100ミ リリットルに抗生剤ホスミシン1グラムを調合したものを1時間 あたり100ミリリットルの速度で点滴すること、次いでソリタ T1の500ミリリットルに20パーセントのブドウ糖2アンプ ル、ビタミン剤ビスコン1アンプル及び吐き気止めプリンペラン 約1.3ミリリットルを調合したものを1時間あたり100ミリ リットルの速度で点滴すること、その後ソリタT3を1時間あた り50ミリリットルの速度で点滴することを指示した。午後6時 30分の時点でDクリニックに残っていた看護職員は、被告、I 看護師及びM助手の3人。 ・小児科外来で診察を受けた患者が入院することを知った被告は、 H医師が指示箋に記載した内容に従い、原告Aに投与する点滴ボ トル等を準備し、薬剤の調合行為を行った。このとき、I看護師 は、小児科や内科の後片づけや戸締まりなどをしていたが、被告 が外来中通路カウンターの小児科内科処置室前付近で点滴の準備 をしている姿を見かけた。被告は、通常と同じように、輸液セッ トに三方活栓をつなげ、さらにエクステンションチューブをつな げて、ソリタT1のボトルにびん針を刺し、輸液セットやエクス テンションチューブなどに点滴輸液を満たして点滴の準備をした。 一方、M助手は、ナースステーション出入口付近で、原告Cから 原告Aが入院することになったと聞き、原告Cのために簡易ベッ ドを準備。 ・午後6時40分ころ、談話室で待っていた原告Aと原告Cは、 同日被告からの指示で、N2と表示のある病室(N2病室)に移 動した。原告CがN2病室の奥の方にあったベッドに原告Aを寝 かせていると、被告がN2病室に入ってきて原告Aに点滴を実施 しようとしたが、被告は原告Aの血管を確保することができなかっ たことから、他の看護師を呼ぶためにN2病室から出ていった。 同日午後6時45分ころ、被告から呼ばれたI看護師が被告とと もにN2病室に入ってきて、原告Aの血管確保を試みた。しかし、 I看護師も原告Aに対してうまくサーフロー針を刺すことができ ず、再度、被告が手技を行ったところ、原告Aの左手に血管を確 保することができた。I看護師は、N2病室に5分くらい滞在し たが、その後はN2病室を出て、外来の診察室に戻って後片づけ を続けた。 ・午後6時50分ころ、原告Aに対し、最初にソリタT1のボト ルが点滴され、その後、間もなく、生理食塩水ボトルに切り替え られた。被告は、I看護師が出ていった後もN2病室に残り、原 告Aに対し、「お腹の痛みはどう。」と様子を聞いていた。これ に対し、原告Cが「点滴の痛みでお腹の方はよくわかんなくなっ ちゃったんじゃない。」と言ったところ、原告Aは、「点滴慣れ たから。」と普通の口調で答えていた。 ・午後6時55分ころ、原告Aは、右手を顔の辺りに持ってきた り、両目を早い間隔でパチパチとまばたきしたり、首を少し左右 に振るような仕草をした。これを見た原告Cは、原告Aの様子が おかしいと感じ、原告Aに「A、どうしたの。」と声をかけた。 原告Aは、原告Cに対し、「何か、目が変。」「物が二重に見え る。」などと訴えたものの、このときの話し方は普段どおりで口 調もしっかりしていた。 ・午後6時55分ころ、H医師は、ナースステーションに行き、 被告に原告Aの様子を尋ねたところ、被告から、「点滴を刺すの に4回もかかっちゃった。お腹が痛くなると物が見えないとか言っ ているんですよ。」などと聞かされた。H医師は、お腹が痛くなっ て物が見えなくなるという事態になることはあり得ないと考え、 また、入院前には原告Aに物がよく見えないという症状は全く認 められなかったことから、すぐに原告Aの様子を見に行かなけれ ばならないと考え、N2病室に走っていった。 ・N2病室に入ってきたH医師に対し、原告Cは、「何か変なん ですけど。物が二重に見えるって言うんです。」と話しかけた。 H医師が、原告Aに対し、「Aちゃん、どうしたの。」と問いか けると、原告Aは、H医師に対しても、「物が二重に見える。」 「何か飲みたい。」「口がきけなくなってきた。」などと少しろ れつの回っていない口調で話した。このころの原告Aは、目が半 開きの状態となり、顔色はH医師が外来で診察したときよりも更 に悪くなって青ざめていたが、この時点では、原告Aの顔や体に 発疹は認められなかった。 ・さらに、原告Aは、「あーあー」とうなるような声を出し、首 を左右に大きく苦しそうに振り始めた。これを見た原告Cが、H 医師に「先生、何か変ですよ。意識レベル下がっていませんか。」 と言うと、H医師は、「すぐに市立病院(仙台市立病院)に移し ましょう。」と言い、N2病室にいた被告に、点滴を薬剤が何も 調合されていないソリタT1に変更するよう指示し、自らは市立 病院に電話をするためにナースステーションに向かった。このと き、H医師は、原告Aの病状の原因が何であるか全く分からず、 重大な病気の可能性があると考え、そのため、人員や物的設備の 整っている市立病院に原告Aを転送した方がよいと判断。 ・午後7時ころ、H医師は、市立病院の当直医であったQ医師に 対し、電話で、11歳の女児が腹痛を訴えて入院したが、入院直 後に物が二重に見える、口がきけない等の神経症状が認められた ので、至急転院をお願いしたいと伝えた。 ・H医師がN2病室を出ていった後、原告Aは何か言葉を発して 訴えようとしたものの、ろれつが回らない口調であり、原告Cは、 原告Aの発する言葉を聞き取ることはできなかった。その後、原 告Aは、急に仰向けに寝ていた状態から左側を下にして横向きの 状態になって何も言わなくなり、右腕だけを小さく上下させた。 ・午後7時ころ、I看護師が病室を訪れたとき、原告Aはベッド でぐったりしており、声をかけても痛覚反応を確かめても反応が なかったため、I看護師は、原告Aには意識がないと判断した。 また、原告Aの自発呼吸が低下し始めた。そこで、I看護師は、 原告Aに対する救急処置が必要であると考え、ナースステーショ ンに戻ってそこにあった救急カートをN2病室に運び入れた。こ のとき、H医師は、まだナースステーションで電話中であった。 I看護師は、N2病室において、救急カートの中から新しいソリ タT1の点滴ボトルを取り出し、これにボトルを交換する方法で 点滴を切り替えた。また、原告Aに心電図モニターを装着したと ころ、原告Aの心拍数は50台であり、全身にけいれん様のピク つきが見られ、とくに左半身に強く現れていた。 ・午後7時5分ころ、原告Aに酸素マスクが装着され、1分間に 5リットルの酸素投与が開始された。I看護師が、原告Aの上記 ぴくつきを見て頭部内の障害の発生を疑い、血圧を測定したとこ ろ、血圧は180/100であった。そのころ、原告Aは、手首 の拍動はあるものの、その指先が白っぽく末梢チアノーゼの症状 を示しており、手や足は冷たい感じであった。 ・午後7時8分ころ、I看護師は、原告Aの自発呼吸が非常に弱 くなり始めたので、アンビューバッグによりバッグアンドマスク の人工呼吸(下顎を持ち上げて気道を確保し、鼻と口をマスクで ぴったりと覆い、アンビューバッグを付けてそれに酸素をつなぎ、 アンビューバッグ押すことによって酸素を肺に送り込む方法)を 開始し、引き続き毎分5リットルの酸素を供給した。このころ、 原告Aの瞳孔は、両眼とも約5.5ミリの大きさに開いたままで、 光を当てても瞳孔が収縮する反応がない状態であった。また、上 記補助呼吸開始時の原告Aの血液中の酸素量を示す酸素飽和度は 84パーセントであった。 ・午後7時8分ころ、H医師が、市立病院への搬送連絡の電話を 終え、N2病室に戻ると、I看護師がアンビューバッグを持ちバッ グアンドマスクの人工呼吸を行っているところであり、I看護師 は、H医師に対し、原告Aの呼吸状態が悪くなってきたと報告し た。H医師は、I看護師に対し、原告Aを市立病院に搬送するよ う指示し、I看護師は、M助手に救急車を手配するよう指示した。 このころ、原告Aは、ベッドの上で体全体をぐったりとさせ、目 は半開きのままで、顔色も紫に近い青色になって非常に悪く、顔 面にチアノーゼが認められ、H医師が大きな声で呼びかけたり、 体を触ったりしたが、原告Aが全く反応しなかったことから、H 医師は、原告Aには意識がないものと判断した。H医師は、原告 Aの酸素飽和度が84パーセントだったことから、酸素吸入量を 1分間に5リットルから10リットルに増やしたところ、酸素飽 和度は90ないし91パーセントまで改善された。 ・その後も、原告Aに対してバッグアンドマスクの人工呼吸が続 けられた。その間、被告が、原告Aからそのマスクを外し、喉頭 鏡で原告Aの口の中をのぞき込んだ上、H医師に対し、気道確保 の処置を促してきたことがあったが、H医師は、気道確保の手技 を的確に行う自信がなく、また、その手技を適切に行うことがで きない場合には、原告Aの状態を更に悪化させる可能性があると 判断したため、気道確保の処置を試みることはしなかった。 ・その後、原告Aの心拍数が30ないし40へと次第に低下した ため、H医師は、ボスミン1アンプルを三方活栓から静脈注射し、 また、被告に対してイノバンを点滴に入れるよう指示した。被告 は、イノバン1アンプルを点滴に投与したが、更にイノバン2ア ンプルが追加投与された。しかし、そのころ、原告Aの心臓が停 止し、心電図モニターの波形が一時フラットになることがあった。 ・午後7時15分ころ、救急隊がDクリニックに到着したが、そ のころ、原告Aは心肺停止状態に陥っていたため、原告Aに対し、 心臓マッサージが施行され、同日午後7時22分ころ、心拍が再 開した。また、被告の介助の下、原告Aにはラリンゲルチューブ が挿入され、アンビューバッグにつながれて人工呼吸が実施され、 午後7時30分ころ、いったん自発呼吸再開。 ・7時32分ころ、原告Aは、H医師、I看護師、原告Cが同乗 する救急車で市立病院に向かったが、その車中の同日午後7時4 8分ころ、再び原告Aの自発呼吸が停止。 ・午後7時51分ないし52分ころ、原告Aは、市立病院救急セ ンター外来に搬入された。このとき、原告Aの体温は36.4度、 血圧は130/58、心拍数は97で、深い昏睡状態にあり、自 発呼吸は認められなかった。原告Aの体に発疹はなく、瞳孔に左 右差はなく、対光反射も認められないという状態であった。また、 心臓に不整脈はなく、心雑音や肺の雑音は聴取されなかった。腹 部は柔らかく平坦で、腸雑音が聴取されたものの、筋性防御はな かった。肝臓、脾臓は腫大しておらず、膝蓋腱反射、アキレス腱 反射が強く出ていたが、項部硬直はなかった。Q医師は、原告A に挿入されていたラリンゲルチューブを外して気管内挿管を行っ たが、その際、筋弛緩剤を投与しなかったにもかかわらず、挿管 の際に原告Aが歯を食いしばるようなことはなく、咳そう反射、 おう吐反射なども認められなかった。 ・Q医師は、H医師から、救急センター外来の処置室で、原告A の症状、経過などについて診療情報提供書に基づいて説明を受け るとともに、I看護師からも話を聞いた。このとき、Q医師は、 原告Aに意識レベルの低下が起きたころに原告Aの左半身に優位 な筋肉が収縮したり弛緩したりするような動きが認められたとい う説明を受けたことから、受け取った診療情報提供書に「左半身 につよい間代性ピクつき」と記載。 ・午後8時25分ころ、原告Aの全身に不随意運動(手や足が強 い勢いで屈曲する動きや、体が反り返って硬くなるような動き) が出現した。原告Aの動きは、強直した状態が継続するわけでは なく、収まる時期もあったが、その収まった時期は力が入ってお らず、だらんとしたような状態であった。また、原告Aには、屈 曲していた状態の腕を肩をひねるように内側から回して伸ばし、 その後伸ばした状態で硬くなって全身の震えが起きてくるような 動きも見られた。Q医師は、抗けいれん剤を順次何種類も投与し ていき、原告Aの不随意運動は収まることはなかったが、その頻 度は徐々に減少していった。なお、不随意運動が持続していた時 点でも、原告Aの自発呼吸は回復していなかった。 ・午後9時15分ころ、原告Aに鈍いながら対光反射が出現した。 市立病院においては、原告Aに対し、腹部及び胸部レントゲン検 査、腹部CT検査、頭部造影CT検査、血液検査等が実施された が、その検査結果からは、原告Aが急変を起こす原因となるよう な特段の異常は認められなかった。 ・原告Aは、市立病院に入院後の集中治療により自発呼吸が回復 したものの、無酸素性脳症による四肢体幹運動機能障害及び知能 障害等の後遺障害を被った。現在でもなお意識が戻らず、寝たき りの状態が継続。 ■原告Aの血液及び尿からベクロニウムが検出されたことについ て 「・・・原告Aから採取された血液及び尿のいずれからも臭化ベ クロニウムが検出され,それらの濃度は,血中濃度が25.9n g/ml及び尿中濃度が20.8ng/mlであったことが認め られる」 「これに対し,被告は,本件鑑定は信用性がないと主張する。し かし,・・・各証拠によれば,本件鑑定を行ったFらは,本件鑑 定を行うための十分な学識と経験を有しており,その研究成果に 基づき本件鑑定を行っているものであることが認められ,本件鑑 定の手法,過程及び結果に疑いを抱かせるに足りる事情は見あた らないことに照らし,本件鑑定は合理的なもので十分信用できる というべきであって,被告指摘の諸点を検討しても,上記認定・ 判断を左右するには足りない」 ■原告Aの急変原因とマスキュラックスの効果と矛盾しないこと について 「・・・作用は,目の周りの筋肉から作用し始め,動眼筋が弛緩 すると,両目の焦点が合わず,物が二重に見えたり(複視)ぼや けて見えたりし,眼瞼筋が弛緩すると,眼瞼下垂が起こり瞼が開 けづらくなるところ,平成12年10月31日午後6時55分こ ろの原告Aの『物が二重に見える。』などの訴え,また,原告A の目が半開きの状態となっていたという症状は,いずれもマスキュ ラックスの上記作用に符合する」 「マスキュラックスの作用は,次に顔の筋肉に影響が出て,これ に伴い表情が乏しくなったり,口の周りの筋の弛緩により口を動 かしづらくなり,発話も制限され,さらに,首やのどの周辺の筋 肉に影響が出て,これにより声帯がうまく動かせず,声が出にく くなり,舌がうまく動かせず,ろれつが回らなくなったりする。 同日午後6時55分ころから午後7時ころにかけての原告Aの 『口がきけなくなってきた。』などの訴え,原告Aが『あーあー』 とうなるような声を出し,首を左右に大きく苦しそうに振り始め たという行動,原告Aが何か言葉を発して訴えようとしたものの, ろれつが回らない口調のため,母親である原告Cも原告Aの発す る言葉を聞き取ることができなかったという出来事は,いずれも マスキュラックスの上記作用に符合する」 「その後,原告Aが,仰向けに寝ていた状態から左側を下にして 横向きの状態になって何も言わなくなったこと,同日午後7時こ ろ,原告Aがベッドでぐったりとし,I看護師が声をかけても痛 覚反応を確かめても反応を示さなかったことは,マスキュラック スの作用が四肢の筋肉などに作用し始めたことから,原告Aがそ の意思を外部に身体的に表現することが困難となり,外部からは 意識がないように見えていたものと考えることができるから,マ スキュラックスの作用と矛盾しない」 「原告Aが,左側を下にして横向きになった状態で右腕だけを小 さく上下させたという動作については,これが,随意運動なのか 不随意運動なのかを断定することはできない。しかし,上記動作 が原告Aの随意運動であるとすれば,筋肉の部位によってマスキュ ラックスの作用に対する感受性は異なることから,マスキュラッ クスによる筋弛緩効果が右上肢の筋肉に十分現れていなかった時 点で,原告Aが右上肢を持ち上げようとして現れた動作であると 理解することができるし,上記動作が原告Aの不随意運動である とすれば,後記のとおり,脳に対する低酸素状態が強くなり,中 枢神経内にけいれんを誘発する病変が進行していたため,マスキュ ラックスによる筋弛緩効果が十分現れていなかった右上肢の筋肉 が収縮してけいれんを引き起こしたと見ることができる。いずれ にしても,マスキュラックスの作用と矛盾するものではないと言 える」 「同日午後7時ころ,原告Aの自発呼吸の低下が見られているが, これはマスキュラックスが原告Aの横隔膜に筋弛緩効果を及ぼし, 原告Aの呼吸を抑制する作用を起こし始めたものと推認すること ができる。横隔膜は,肺胞換気量の維持に重要な役割を果たして いる骨格筋であり,これに筋弛緩効果が及ぶと,肺胞換気量の低 下をもたらすだけではなく,胸郭の動きを小さくし,外部から自 発呼吸の低下として観察されることは十分に考えられる。マスキュ ラックスの直接の効果として,呼吸回数の減少をもたらすことは ないとされているが,この所見は上記認定を左右するに足りるも のではない」 「被告は,原告Aに頻呼吸の症状が見られなかったことをもって, この事実はマスキュラックスの作用と矛盾すると主張する。確か に,呼吸抑制があると,血液中の酸素濃度が下がり,炭酸ガス濃 度が上がるから,これによって呼吸中枢が刺激されて呼吸回数を 増やす方向に働くとともに,心臓からの血液の拍出量を増大させ るという生理的機能が存在する。しかし,マスキュラックスが横 隔膜に筋弛緩効果を及ぼしている場合,呼吸中枢から呼吸回数を 増やす信号が送られても,横隔膜がそれに従った動作を行うこと はできないはずである。したがって,呼吸抑制の代償措置として の頻呼吸が見られないことをもって,マスキュラックスの作用と 矛盾するという被告の主張は採用できない」 「同日午後7時5分ころ,I看護師が,原告Aの血圧を測定した ところ,血圧は180/100であり,原告Aの手首の拍動はあ るものの,その指先は白っぽく末梢チアノーゼの症状を示してお り,手や足は冷たい感じであった。上記の血圧は,当時の原告A の年齢に照らすとかなりの高血圧である。これは・・・,マスキュ ラックスの筋弛緩効果により原告Aの呼吸が抑制されたことに対 する代償作用として,心臓からの血液の拍出量が増大した結果で あると推認できる。しかし,上記代償措置が働いているにもかか わらず,末梢チアノーゼの症状が示されているのであって,マス キュラックスの筋弛緩効果により呼吸回数を増やすという代償措 置は有効に機能せず,血液の拍出量の増大という代償措置も不十 分であったということを意味するものであって,この時点におい て,原告Aに低酸素血症・高炭酸ガス血症が起きていた可能性は 十分にあるというべき」 「I看護師は,同日午後7時5分ころ,原告Aに酸素マスクを装 着して1分間に5リットルの酸素投与を開始している。その3分 後の原告Aの血中酸素飽和度が84パーセントであったというの であるから,上記酸素マスク装着時の血中酸素飽和度は,更に低 かった可能性が十分にあるというべきである。また,血中酸素飽 和度が84パーセントというのは,原告Aの血液が強い低酸素状 態にあったということができ,しかも上記の血中酸素飽和度は, 原告Aの呼吸抑制に対する代償措置が精一杯機能した上での数値 であること,中枢神経細胞が低酸素状態に極めて弱い臓器である ことも合わせ考えると,同日午後7時5分ころ以降の強い低酸素 状態によって,原告Aの脳幹部の中枢神経細胞の機能が大きく障 害された結果,原告Aの瞳孔が散大し,対光反射を起こさない状 態に至ったものと推認するのが合理的である」 「同日午後7時15分ころ,原告Aは既に心肺停止状態に陥って いた。これは,同日午後7時8分ころの時点で,原告Aの脳幹部 の中枢神経細胞が低酸素血症によって大きく障害された結果,原 告Aが重篤な低酸素脳症に陥った結果であると認められる。これ は,市立病院に搬送後に撮影された原告Aの頭部造影CT検査の 結果,心停止後に見られる一般的な軽い脳浮腫の外には,呼吸停 止あるいは対光反射喪失に結びつくような強い脳浮腫,脳出血, 脳腫瘍,脳梗塞等の病変が見あたらないこととも符合する」 「原告Aは,市立病院に搬送された後,強い膝蓋腱反射及びアキ レス腱反射を起こし,全身に不随意運動を出現させたが,これは 原告Aが重篤な低酸素脳症に陥った結果,神経系の障害が起きた ためであると認められる」 「以上のとおり,原告Aの容体急変後の症状の経過は,マスキュ ラックスの効果に矛盾しないどころか十分符合するということが でき,その経過は,マスキュラックス投与の一次的二次的作用と して説明することが十分に可能というべき」 ■マスキュラックスの投与と原告Aの現在の症状との因果関係に ついて 「原告Aは,低酸素脳症後遺症により,四肢体幹運動機能障害の 状態にあり,痙性四肢麻痺,長期臥床,嚥下障害,腸管蠕動運動 不全,遷延性意識障害,痙攣発作,知能障害等により,平成12 年10月31日から平成13年6月29日まで,市立病院におい て入院加療し,同年7月4日から現在まで,仙台往診クリニック 所属の複数の医師の訪問診療を受けている。具体的には,高度の 脳障害に由来する高度の痙性四肢麻痺のため,家で寝たきりの状 態であり,日常の動作・活動のすべてについて家族の介助を必要 とし,胃と腸に穴を開けて管を通し直接栄養を補給する経管栄養 管理を実施し,唾液及び痰の吸引を頻回必要とし,腸の蠕動運動 不全に伴うおう吐がたびたびあり,その都度絶食して点滴で対応 している。原告Aは家族との意思疎通は全くできない。原告Aの 上記の症状は回復の見込みがない」 「・・・上記の原告Aの現在の症状は,平成12年10月31日, Dクリニックで点滴を受けていた際に原告Aの体内にマスキュラッ クスが投与されたことにより,マスキュラックスの作用によって 原告Aの呼吸が強く抑制され,強い低酸素状態となって脳幹部の 中枢神経細胞の機能が大きく障害されたたために生じたものと推 認することができ,マスキュラックスの投与と原告Aの現在の症 状との間には相当因果関係が認められるというべき」 ■原告Aに対し故意にマスキュラックスを投与した者について 「原告Aにマスキュラックスが投与されたのは,平成12年10 月31日午後6時50分ころから午後6時55分ころまでの間で あって,その方法としては,点滴溶液で満たされた原告Aに対す る点滴ルートの三方活栓から点滴ボトル側の輸液セットにマスキュ ラックスが混入されたと見るのが最も合理的」 「そして・・・,原告Aに対する当初の点滴準備はすべて被告が 一人で行ったものであり,他方,被告以外の者が原告Aの上記点 滴ルート周辺に近づいた形跡は認められない」 「被告は,平成13年1月6日に警察官に対する供述において, 同月7日に警察官,検察官及び裁判官に対する各供述において, 平成12年10月31日にDクリニックに入院した原告Aに対す る点滴の際,その点滴液の中にマスキュラックスを混入させて原 告Aに投与した事実を認めている。上記各供述のうち,とりわけ, 同月7日に仙台簡易裁判所裁判官に対してなされた被告の供述は, 勾留質問時においてなされたものであって,上記供述の場所は仙 台簡易裁判所の勾留質問室であり,その場に立ち会った者は,裁 判官と裁判所書記官のみであって,捜査機関側の人物はいないこ と,供述に先立って黙秘権,供述拒否権及び弁護人選任権が告知 されていること,その供述内容は,勾留請求書記載の被疑事実に 対し,単純にこれを認めるだけの供述ではなく,H医師を困らせ るためにやったもので殺意はなかった旨マスキュラックスを混入 させた動機を明らかにした上で殺意を否認する弁解をした上,原 告Aに対しては申し訳なかった旨謝罪の意思まで述べていること, 被告は,同日,上記勾留質問手続がなされる前に弁護士二人と接 見しており,その際,弁護士から,『やったものはやった,やっ ていないものはやっていないとちゃんと区別して答えるように。』 とのアドバイスを受けていることが認められるのであって,これ らの事実に加え・・・,その供述内容が原告Aの血液や尿からマ スキュラックスの成分が検出されたという客観的事実に符合して いることに照らすと,上記勾留質問時の被告の供述の信用性に疑 いを容れる余地はないというべきである。被告の指摘する諸点は, 上記認定・判断を左右するに足りない」 「・・・被告は,原告Aの容体が急変した前後において,原告A が身体の異常を訴え始めたことを認識していたのに,原告Aに対 する処置を何らとることなく,病室を出て行き,H医師に対し, 『お腹が痛くなると物が見えないとか言っているんですよ。』な どと緊迫感に欠ける発言をしていること,原告Aに対してバッグ アンドマスクの人工呼吸が必死に続けられていた最中に,原告A からそのマスクを外し,喉頭鏡で原告Aの口の中をのぞき込んだ 上,H医師に対して気道確保の処置を促していることが認められ るところ,これらの言動は,看護師として患者急変時にとるべき 行動とはかけ離れた特異なものと評価せざるを得ない。そして, 被告からH医師に向けられたこれらの言動は・・・,H医師を困 らせようとして実行したという被告が供述した本件不法行為の動 機と符合するものということができる」 「被告の指摘する諸点は・・・,いずれも被告が原告Aに故意に マスキュラックスを投与したとする認定・判断を左右するに足り るものではない」 「したがって,被告は,原告らに対し,民法709条,710条 に基づき,本件不法行為によって原告らが被った後記損害を賠償 すべき責任がある」 ■損害 ・原告Bと原告Cが本件不法行為によって受けた苦痛は、原告A の生命を侵害された場合に比肩すべき極めて大きなものというべ き ・原告Aは、慰謝料のみを請求する意思(弁論の全趣旨) ・本件不法行為による原告らの精神的苦痛に対する慰謝料は、原 告A4000万円・原告B及び原告Cにおいて各500万円 ■判決主文 1 被告は,原告Aに対し,4000万円及びこれに対する平成1 2年10月31日から支払済みまで年5分の割合による金員を支 払え。 2 被告は,原告Bに対し,500万円及びこれに対する平成12 年10月31日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払 え。 3 被告は,原告Cに対し,500万円及びこれに対する平成12 年10月31日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払 え。 4 訴訟費用は,被告の負担とする。 <以下略>