判例速報
今回は,福島県立大野病院事件の判決要旨を速報します。なお, 刑事事件ですので,判決文はまだ作成されてない模様(刑事は口 頭での言渡しが先になります)。以下は,判決日に公表された判 決要旨に依拠しました。また,診療経過に係る事実関係について は,裁判所からの公表がまだですので日本医師会「医療事故責任 問題検討委員会」(平成19年10月2日)資料によりました。 ■年月日・裁判所 H20.08.20 福島地方裁判所 平成18年(わ)第41号 業務上過失致死・医師法違 反被告事件 ■当事者 被告人:福島県立大野病院の産科医 ■診療経過<注:この部分は裁判所の事実認定ではない> ・患者は,20代女性で経産1回。前回は帝王切開で部分前置胎 盤。 ・平成18年11月22日,切迫早産・部分前置胎盤の診断で入 院(妊娠32週2日)。 ・12月17日,帝王切開術(妊娠36週6日)。 ・14時2分麻酔開始し,14時26分帝王切開手術を開始した ・14時50分胎児娩出,輸血(濃厚赤血球5単位) ・15時15分輸血製剤10単位発注(1回目),16時5分同 10単位発注(2回目) ・16時30分輸血製剤到着(1回目)・輸血(濃厚赤血球10 単位) ・17時30分輸血製剤到着(2回目)・輸血(濃厚赤血球10 単位)。このころ子宮摘出 ・18時ころ心室細動・蘇生開始 ・19時1分死亡確認(後の上記病院事故調査報告書によると, 死因は,癒着胎盤の剥離による出血性ショックで輸液が不足し循 環血液量が減少し心筋の虚血性変化が起こり心室性不整脈を起こ し死亡に至ったものとされた) ■出血部位等 「胎盤剥離開始後の出血のうちの大部分は,子宮内壁の胎盤剥離 部からの出血と認められる」 「胎盤剥離中に出血量が増加したことが認められるところ,胎盤 剥離中の具体的な出血量については,麻酔記録等から,胎盤娩出 時の総出血量は2555mlを超えていないことが,カルテの記載及び 助産師の証言等から,遅くとも午後3時ころまでに出血量が5000ml に達したことが認められる」 ■本件患者の死因及び被告人の行為との因果関係 「鑑定は,本件患者の死因は,胎盤剥離時から子宮摘出手術中ま で継続した大量出血によりショック状態に陥ったためであり,他 の原因は考えにくいとする」 「同鑑定の内容は,本件患者の循環血液量の絶対量が不足する状 態が長時間継続していた手術経過に合致し,死亡診断書及びカル テに記載された被告人の判断及び手術を担当した他の医師らの判 断とも合致している」 「したがって,本件患者の死因は,出血性ショックによる失血死 であると認められる」 「本件患者の死因が出血性ショックによる失血死であり,総出血 量のうちの大半が胎盤剥離面からの出血であることからすれば, 被告人の胎盤剥離行為と本件患者の死亡との間には因果関係が認 められる」 ■胎盤の癒着部位・程度 「A鑑定(引用注:検察側鑑定)は,子宮筋層と絨毛の客観的な位 置関係を認定するというレベルでは一応信用性が高いと評価でき るが,胎盤の観察,臨床医の情報等を考慮しておらず,子宮の大 きさ,胎盤の形や大きさ,帝王切開創部分と胎盤の位置関係,臍 帯を引いたときの胎盤と子宮の形,胎盤剥離時の状況等に関する 事実と齟齬する点がある。したがって,A鑑定が指摘する部分全て に癒着胎盤があったかは相当に疑問であり,その結果をそのまま 癒着胎盤が存在する範囲と認定することはできない」 「B鑑定(引用注:弁護人側鑑定)は,胎盤の写真を鑑定資料に加 えて,胎盤が存在し得ない場所に絨毛が存在することにつき合理 的説明を加えていることなどから,その鑑定手法の相当性は是認 できる」 「しかし,胎盤の写真を根拠として癒着の有無を正確に判断する ことには困難が伴うと考えざるを得ないことなどの事情を総合す れば,B鑑定は,A鑑定と異なる部分について,A鑑定に対し,合理 的な疑いを差し挟む論拠を提供するには十分な内容を有している ものの,積極的にその結果の全てを是認し得るまでの確実性,信 用性があるかについては疑問の余地が残る」 「以上からすれば,A鑑定で後壁の癒着胎盤と判断した標本から, B鑑定が一応合理的な理由を示して疑問を呈した部分を除いた標本 部分については癒着胎盤があり,胎盤剥離状況や剥離に要した時 間に鑑みると,癒着範囲は相当程度の面積を有していたと認めら れる」 「本件患者の子宮標本のうち,絨毛及び糸の存在が認められる部 分があり,A鑑定は同部分を嵌入胎盤としている」 「同部分を前回帝王切開創と見ることに不合理な点はないものの, 同部分が用手剥離等によらず剥離できたこと,また,B鑑定は,同 部分を癒着胎盤と評価していないことからすれば,絨毛が観察さ れたことをもって,直ちに癒着胎盤と認めることは疑問が残る」 「癒着の程度については,A,B鑑定に差異はあるものの,本件の 癒着胎盤が,ある程度子宮筋層に入り込んだ嵌入胎盤であること については,両鑑定ともに一致する」 「胎盤は,子宮に胎盤が残存している箇所を含む子宮後壁を中心 に,内子宮口を覆い,子宮前壁に達していた。子宮後壁は相当程 度の広さで癒着胎盤があり,少なくともA鑑定で後壁の癒着胎盤と 判断した部分から,B鑑定が一応合理的な理由を示して疑問を呈し た部分を除いた部分については,癒着していた」 「癒着の程度としては,ある程度絨毛が子宮筋層に入り込んだ嵌 入胎盤の部分があった」 ■癒着胎盤の認識 「手術に至るまでの事実経過に照らすと,被告人は,手術直前に は,子宮を正面から見た場合に,胎盤は本件患者から見て左側部 分にあり,前回の帝王切開創の左側部分に胎盤の端がかかってい るか否か微妙な位置にあると想定し,本件患者が帝王切開手術既 往の全前置胎盤患者であることを踏まえて,前壁にある前回帝王 切開創への癒着胎盤の可能性を排除せずに手術に臨んでいたが, 癒着の可能性は低く,5パーセントに近い数値であるとの認識を持っ ていたことが認められる」 「本件患者の腹壁を切開し子宮表面が露出された際,子宮前壁の 表面に血管の怒張が存在したことが認められる。この点につき, 検察官は,癒着胎盤の特徴として,子宮表面に暗紫色の血管の怒 張が見られるとする」 「しかしながら,被告人は,これにつき前置胎盤患者によく見ら れる血管であり,癒着胎盤の兆候としての血管の隆起とは異なる 旨診断したと供述しており,当該診断が不自然であるとは認めら れない」 「したがって,上記血管の怒張を見た段階で,被告人が,前述の とおりの術前の癒着の可能性の程度に関する認識を変化させたと 認めることはできない」 「被告人は,用手剥離中に胎盤と子宮の間に指が入らず用手剥離 が困難な状態に直面した時点で,確定的とまではいえないのもの, 本件患者の胎盤が子宮に癒着しているとの認識をもったと認める ことができる」 「しかしながら,前回帝王切開創部分に癒着胎盤が発生する確率 が高いのは,前回帝王切開瘢痕部付近は脱落膜が乏しいためと考 えられており,この理由は子宮後壁部分の癒着には当てはまらな い。したがって,被告人が有していた前壁の癒着の予見,認識が, 段階的に高まって癒着剥離中の癒着の認識に至ったと考えること はできない」 ■大量出血の予見可能性について 「癒着胎盤を無理に剥がすことが,大量出血ショックを引き起こ し,母体死亡原因となり得ることは,被告人が所持していたもの も含めた医学書に記載されている。したがって,癒着胎盤と認識 した時点において,胎盤剥離を継続すれば,現実化する可能性の 大小は別としても,剥離面から大量出血し,ひいては,本件患者 の生命に危機が及ぶおそれがあったことを予見する可能性はあっ たと解するのが相当である」 ■子宮摘出手術等への移行可能性について及び大量出血の回避可 能性 「被告人が胎盤が子宮に癒着していることを認識した時点におい ては,本件患者の全身状態は悪くなく,意識もあり,子宮摘出同 意の再確認も容易な状況にあった」 「したがって,手術開始時から子宮摘出手術も念頭においた態勢 が取られていたこと等に鑑みれば,検察官が主張するとおり,同 時点において,被告人が直ちに胎盤剥離を中止して子宮摘出手術 等に移行することは可能であったと認められる」 「一般論として,通常の胎盤剥離の出血量よりも前置胎盤の剥離 の出血量の方が多く,それよりもさらに前置胎盤と癒着胎盤を同 時に発症している胎盤の剥離の出血量の方が多いことが認められ る」 「本件において,クーパー使用開始直前時点までに被告人が用手 剥離によって剥離を終えていた胎盤は,後壁部分と考えられる部 分のおよそ3分の2程度であり,胎盤全体との関係では3分の1強程 度である。この剥離部分は,用手剥離で剥離できた部分で,そこ からの出血はあまり見られず,出血が多かったのは,その後,被 告人がクーパーを使用して剥離した後壁下部であったこと,用手 剥離できた部分は,後壁の上の方に付着していた部分であり,病 理学的にも癒着胎盤と認める根拠に乏しい部分であることから, この剥離部分からの出血量は,いわゆる通常の胎盤の剥離の場合 の出血量と同程度と推認される」 「そうすると,胎盤剥離を中止して子宮摘出手術等に移行した場 合に予想される出血量は,胎盤剥離を継続した場合である本件の 出血量が著しく大量となっていることと比較すれば,相当に少な いであろうということは可能であるから,結果回避可能性があっ たと解するのが相当」 ■医学的準則及び胎盤剥離中止義務について 「本件では,癒着胎盤の剥離を開始した後に剥離を中止し,子宮 摘出手術等に移行した具体的な臨床症例は,検察官側からも被告 人側からも提示されておらず,また,当公判廷において証言した 各医師も言及していない」 「次に,上記医師らのうち,C医師のみが,検察官の主張と同旨の 見解を述べるが,同医師が腫瘍を専門とし,癒着胎盤の治療経験 に乏しいこと,同医師の鑑定や証言は,同医師自ら述べるとおり, 自分の直接の臨床経験に基づくものではなく,主として医学書等 の文献に依拠したものであることからすれば,同医師の鑑定結果 及び証言内容を,臨床における癒着胎盤に関する標準的な医療措 置,あるいはこれを基準とした事案分析と理解することは相当で はない」 「他方,上記医師らのうち,D及びE医師の産科の臨床経験の豊富 さ,専門知識の確かさは,その経歴からのみならず,証言内容か らもくみ取ることができ,少なくとも,臨床における癒着胎盤に 関する標準的な医療措置に関する証言は,医療現場の実際をその まま表現しているものと認められる。また,中規模病院に勤務す るF医師も同様の見解を述べる」 「そうすると,本件では,D,E両医師の鑑定ないし証言等から, 『開腹前に穿通胎盤や程度の重い嵌入胎盤と診断できたもの,開 腹後,子宮切開前に一見して穿通胎盤や程度の重い嵌入胎盤と診 断できたものについては胎盤を剥離しない。用手剥離を開始した 後は,出血をしていても胎盤剥離を完了させ,子宮の収縮を期待 するとともに止血操作を行い,それでもコントロールできない大 量出血をする場合には子宮を摘出する。』ということが,臨床上 の標準的な医療措置と解するのが相当」 「検察官は,癒着胎盤であると認識した以上,直ちに胎盤剥離を 中止して子宮摘出手術等に移行することが本件当時の医学的準則 であり,本件において,被告人には胎盤剥離を中止する義務があっ たと主張する。これは,一部の医学書及びC鑑定に依拠するもので あるが,C鑑定が,臨床経験よりも多くを医学書に依拠しているこ とは前述のとおりであるから,結局,検察官の主張は,医学書の 一部の見解に依拠したものと評価することができる」 「しかし,検察官の主張は,以下の理由から採用できない」 「臨床に携わっている医師に医療措置上の行為義務を負わせ,そ の義務に反したものには刑罰を科す基準となり得る医学的準則は, 当該科目の臨床に携わる医師が,当該場面に直面した場合に,ほ とんどの者がその基準に従った医療措置を講じているといえる程 度の,一般性あるいは通有性を具備したものでなければならない」 「なぜなら,このように解さなければ,臨床現場で行われている 医療措置と一部の医学書に記載されている内容に齟齬があるよう な場合に,臨床に携わる医師において,容易かつ迅速に治療法の 選択ができなくなり,医療現場に混乱をもたらすことになるし, 刑罰が科せられる基準が不明確となって,明確性の原則が損なわ れることになるからである」 「この点につき,検察官は,一部の医学書やC鑑定に依拠した医学 的準則を主張しているのであるが,これが医師らに広く認識され, その医学的準則に則した臨床例が多く存在するといった点に関す る立証はされていないのであって,その医学的準則が,上記の程 度に一般性や通有性を具備したものであることの証明はされてい ない」 「また,検察官は,前記のとおり,胎盤剥離を継続することの危 険性の大きさや,患者死亡の蓋然性の高さや,子宮摘出手術等に 移行することが容易であったことを挙げて,被告人には胎盤剥離 を中止する義務があったと主張している」 「しかし,医療行為が身体に対する侵襲を伴うものである以上, 患者の生命や身体に対する危険性があることは自明であるし,そ もそも医療行為の結果を正確に予測することは困難である。した がって,医療行為を中止する義務があるとするためには,検察官 において,当該医療行為に危険があるというだけでなく,当該医 療行為を中止しない場合の危険性を具体的に明らかにした上で, より適切な方法が他にあることを立証しなければならないのであっ て,本件に即していえば,子宮が収縮しない蓋然性の高さ,子宮 が収縮しても出血が止まらない蓋然性の高さ,その場合に予想さ れる出血量,容易になし得る他の止血行為の有無やその有効性な どを,具体的に明らかにした上で,患者死亡の蓋然性の高さを立 証しなければならない。そして,このような立証を具体的に行う ためには,少なくとも,相当数の根拠となる臨床症例,あるいは 対比すべき類似性のある臨床症例の提示が必要不可欠であるとい える」 「しかるに,検察官は,一部の医学書及びC鑑定による立証を行う のみで,その主張を根拠づける臨床症例は何ら提示していないし, 検察官の示す医学的準則が,一般性や通有性を具備したものとま で認められない・・・そうすると,本件において,被告人が,胎 盤剥離を中止しなかった場合の具体的な危険性が証明されている とはいえない」 「上記認定によれば,本件では,検察官の主張に反して,臨床に おける癒着胎盤に関する標準的な医療措置が医療的準則として機 能していたと認められる」 「以上によれば,本件において,検察官が主張するような,癒着 胎盤であると認識した以上,直ちに胎盤剥離を中止して子宮摘出 手術等に移行することが本件当時の医学的準則であったと認める ことはできないし,本件において,被告人に,具体的な危険性の 高さ等を根拠に,胎盤剥離を中止すべき義務があったと認めるこ ともできない。したがって,事実経過において認定した被告人に よる胎盤剥離の継続が注意義務に反することにはならない」 ■医師法違反について 「医師法21条にいう異状とは,同条が,警察官が犯罪捜査の端緒 を得ることを容易にするほか,警察官が緊急に被害の拡大防止措 置を講ずるなどして社会防衛を図ることを可能にしようとした趣 旨の規定であることに照らすと,法医学的にみて,普通と異なる 状態で死亡していると認められる状態であることを意味すると解 されるから,診療中の患者が,診療を受けている当該疾病によっ て死亡したような場合は,そもそも同条にいう異状の要件を欠く というべき」 「本件において,本件患者は,前置胎盤患者として,被告人から 帝王切開手術を受け,その際,子宮内壁に癒着していた胎盤の剥 離の措置を受けていた中で死亡したものであるが,被告人が,癒 着胎盤に対する診療行為として,過失のない措置を講じたものの, 容易に胎盤が剥離せず,剥離面からの出血によって,本件患者が 出血性ショックとなり,失血死してしまったことは前記認定のと おりである」 「そうすると,本件患者の死亡という結果は,癒着胎盤という疾 病を原因とする,過失なき診療行為をもってしても避けられなかっ た結果といわざるを得ないから,本件が,医師法21条にいう異状 がある場合に該当するということはできない」 ■判決主文 被告人は無罪