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東京女子医大事件をきっかけに考える(2)



 医療安全推進者養成講座で「法律学概論」「紛争・訴訟予防論」のテキスト執筆を担当している九州大学の前田正一先生に、本件に関するコメントをお願いいたしましたので、ここにご紹介します。

医療事故の刑事処分―厳罰機能の無効性と厳罰化の弊害―

九州大学  前 田 正 一


(1)はじめに

 平成14年6月28日、東京女子医科大学附属日本心臓血圧研究所循環器小児外科(以下、東京女子医大)の二人の医師が、昨年3月2日の心臓手術過誤に関連して、業務上過失致死容疑(人工心肺の操作担当者であった医師)および証拠隠滅容疑(手術の責任者であった医師)で逮捕された。この事件においては、手術体制はともかく、事故後の行為(被害者に対する事故後の不適切な対応、なかでも、諸記録の改ざん)に至っては、「特定機能病院」というような、特別な状況に言及するまでもなく、非難にも値しないものであった注1)。諸記録の改ざんという、あるまじき事態への関与者には、必要かつ十分な法的・社会的制裁がさなれるべきだと思われる。(ちなみに、刑法上は、事故を起こした者がなした証拠隠滅行為は、期待可能性の低さ等の理由から、証拠隠滅罪の対象とはされない。)
ところで、こうした東京女子医大事件を受けて、医療事故刑事処分の厳罰に向けた議論が生起することが予想される。ただ、東京女子医大の事件だけを見て、医療事故自体について、刑事処分の厳罰化議論を推し進めることは短絡的であるように思われる。というのも、厳罰化したところで、それを正当化させるとされる機能は必ずしも有効にはならず、また、厳罰化は、弊害さえも生じさせることになると考えられるからである。そこで、本小稿は、関連議論を生起させるためにも、医療事故刑事処分の厳罰化について、厳罰化を正当化させる機能とその有効性、厳罰化の弊害等について簡単に考察する。

(2)厳罰化を正当化する機能とその有効性
 害悪である刑罰を科すことが、何ゆえに正当化されうるのかは、刑事法学のもっとも重要な研究課題の一つであり、これについては、刑事法学者や法哲学者を中心に、さまざまな議論が繰り返されている。ただ、その中でも最も重要な正当化理由は、刑罰の犯罪防止機能にあるように思われる。
では、この犯罪防止機能は、医療事故の場合には、有効であろうか。これは、厳罰化前後の事故発生数の把握を基礎に、はじめて考察しうるのであるが(ただ、さまざまなファクターが存在するなかで、この手法を用いても、事故防止機能の真の検証は困難であろう。)、少なくとも、筆者は、この事故防止機能に有効性を期待できないのである。というのは、厳罰したところで、それが、医療従事者個人に臨床の現場においてより注意を払わせることにはならないと思われるからである。たとえば、医療事故と同じく業務上過失致死傷罪が問題にされる交通事故の場合について考えてみよう。交通事故においては、ある程度、広く刑事責任が追及されているが、このことが、交通事故の防止に寄与しているだろうか。そもそも、運転手は、追及される可能性がある「刑事責任」を意識し、より注意を払い、車の運転を行っているだろうか。決して、そのようには思われないのである。その証拠に交通事故は増加の一途である。
ただ、事故防止機能に有効性を期待できないとは述べたが、刑事責任の広い追及は、多少は、医療従事者の注意を促進させることになるかもしれない。しかし、たとえそうだとしても、その作用には代替性が考えられるのである。一つの例ではあるが、免許の取り消しや業務の停止といった、医療従事者への行政処分の強化の方が、むしろ、医療従事者に注意を促すことになるようにも思われるのである。
このように、厳罰を正当化する事故防止機能にも、医療者個人の注意という点からは、その有効性を見出すことができず、また、多少なりとも見出すことが可能な注意促進作用にも代替性が考えられるのである。
幅広い視点で考えれば、医療事故刑事処分の厳罰化は、社会的には、事故防止のために有効であるかもしれない。というのは、厳罰化は、医療の側に事故防止体制の整備の重要性を認識させることになると思われるからである。ただ、この厳罰の広義の機能が、医療事故刑事処分の厳罰化を正当化させる理由になり得ないことは言うまでもない。なぜならば、事故防止体制の整備は、害悪である刑罰の間接機能をまたずとも、刑罰制度以外の社会政策により、行ないうるからである。

 ところで、刑事処分を正当化する理由に、被害者の「報復的感情の鎮静」機能があるとされる。ただ、これに関しても、故意犯ではなく過失犯である場合に、特に、医療のように、程度の差はあっても両当事者間に信頼関係がある場合に、被害者は、加害者に対し「報復的」といえるほどの感情をもつことがあるのか、疑いを持つのである。民事責任に関する研究ではあるが、諸外国の研究論文によれば、民事訴訟を提起した患者は、ほぼ例外なく「もし、事故後に真摯な対応を実施してくれていれば、裁判を起こすことまでしなかった」と言うのである1,2,3)。つまり、こうした、論文の内容を鑑みれば、被害者である患者は、医療者が事故を起こしたから「報復的」感情を抱くのではなく、医療者が事故に真摯に対応しないからこそ、「報復的」感情を抱くことになると思われるのである。そうだとすれば、この機能は、医療事故自体の刑事処分の厳罰化を正当化しうる理由とはならないと思われる。

(3)厳罰化の弊害
 ところで、医療事故刑事処分の厳罰化は、その機能が必ずしも有効でないばかりではなく、いくつかの弊害も生じさせることになると思われる。

1)事故防止の視点から
 まず、事故防止の視点からであるが、厳罰化は、事故防止作業に大きな悪影響を及ぼすと思われるのである。たとえば、わが国の医療現場は、近年、ようやく、いわゆる「ひやりはっと」メモとそれに基づく事故防止作業の重要性を認識した。しかし、厳罰化されれば、医療従事者が、この些細であるけれども重要なメモの提出を躊躇することになるのではないだろうか。
さらに、すでに事故が発生したときのことであるが、刑事責任の追及が考えられる場合、事故関係者には、黙秘権等が認められる。そうなれば、事故発生の原因や防止策をもっとも認識しているはずの、当の本人の協力が得られなくなる可能性すらある。たとえば、松宮教授は、信楽高原鉄道事故事件におけるJR西日本側の捜査への非協力態度には、このような側面があったと述べている4)

2)被害者の事故へのアクセス
 また、厳罰化は、被害者の事故へのアクセス性にも影響を及ぼすことになるだろう。それがまた、被害者・加害者間に無用な紛争や訴訟を生じさせることにもなると思われる。その代表的な事例を紹介する。
数年前に58歳の男性がCT検査の際に造影剤の副作用で死亡したが、死亡診断書に「自然死」という記載があったため、疑問に思った家族は警察に相談した。それを契機に捜査が開始されたが、妻は、その後、夫の死亡状況が知りたいとして、再三、解剖の内容やレントゲン写真などを見せてほしいと頼んだ。しかし、「捜査中」という理由により、内容は明らかにされなかった。送検された現在も開示されていないという。そこで、妻は、情報を知りたいとして、医療機関を相手に、損害賠償を求める民事訴訟を提起したのである)。

3)刑事処分の職種間不均衡
 また、すこし性格が異なる弊害ではあるが、刑事処分の厳罰化は、刑事処分の職種間不均衡を生じさせることにもなると思われる。つまり、刑事処分の場合には、民事処分の場合に増して明確な立証が必要になるが、その結果、薬剤の取り違え事故というような、立証作業が容易な事故がより処罰されることにもなりかねない。そうなれば、たとえば医師よりも看護師のほうが、刑事責任が追及されやすくなるといったように、職務の内容による刑事処分の不均衡という事態が生じることが考えられるのである。

(4)まとめにかえて
 以上、刑事処分の厳罰の機能とその有効性、厳罰化の弊害等を、簡単に考察した。これからわかるように、短絡的な厳罰化議論は、患者の側、医療の側の双方にとって、好ましくない結果に陥る可能性があることがわかる。
冒頭に述べたように、東京女子医大事件を契機として、今後、医療事故刑事処分の厳罰化にむけた議論が生起すると考えられるが、慎重な議論が必要であるように思われるのである。

1)Charles,S.C. Wilbert,J.R.,and Kennedy,E. Physicians self-report of reactions to medical malpractice litigation. American Journal of Psychiatry 141,563-65.
2)Charles,S.C. Wilbert,J.R.,and Franke,K.J. Sued and non-sued phisicians’self-reported reactions to malpractice litigation. American Journal of Psychiatry 142,437-40.
3)Sloan,F., Mergenhagen,P., Bradley Burfield,W.,Randall,R.,Bovbjerg,J.D., and Hassan,M. Medical malpractice experience of physicians: predictable on haphazard. Journal of the American Medical Association 262,3291-97
4)松宮孝明「交通事故における刑事過失責任追及の意味」法と心理1(1)26、2001.
5)毎日新聞2002年7月28日

注1)東京女子医大事件の概要を、新聞報道に基づき簡単に示しておく。(毎日新聞2001年12月29日、同2002年6月29日、同2002年6月30日)
昨年3月2日、東京女子医科大学病院において、当時12歳だった心房中隔欠損症を患う女児に対して、左右の心房を隔てる壁にできた穴を塞ぐ手術が実施された。この際、人工心肺の操作担当者であった医師(以下、操作担当医師)が、心臓と肺を通らずに血流を迂回させる人工心肺装置の操作を誤り(通常1分間約40回のポンプの回転数を100回以上に上げた)、装置が停止状態になったため、患者の脳に十分な血液が供給されず、患者は、重度の脳障害に陥り、3日後に死亡した。
死亡直後、手術の責任者である医師(以下、手術責任医師)は、操作担当医師に対し、人工心肺装置が正常に作動していたように見せかけるため、装置の作動記録を偽造するよう臨床工学技士に働きかけることを指示した。この技士は、操作担当医師の指示に応じて作動記録を改ざんしたが、その改ざんされた記録を見た手術責任医師は、「普通の記録に比べて文字に乱れがなく、きれいすぎる。不自然だから書き直してほしい」と言い、再度、書き直させた。また、この手術責任医師は、看護師に対し、脳障害の事実を隠蔽するために、瞳孔の直径を改ざんすることを指示した。しかし、最初に指示をうけた看護師が、それに応じず、また次に指示を受けた看護師長も、すべての改ざんには応じなかったため、手術責任医師は、自ら改ざんに着手した。この結果、瞳孔の直径が、すべて7ミリから4ミリに書き換えられた。
さらに、事故後、脳の腫れを抑える薬剤を患者に投与していたが、この薬剤の名前や量を診療記録に記載すれば、この記載がもとに脳障害の発生およびその原因となった人工心肺の誤操作が発覚するため、看護師に対し、使用した薬剤の名前や量を診療記録に記載しないように指示した。ただ、この指示に対しては、看護師は応じなかった。