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「阪神・淡路大震災報告書」

 
 2002年5月、兵庫県精神神経科診療所協会(以下、兵精協)は、社団法人日本精神神経科診療所協会の協力を得て「阪神・淡路大震災報告書」を編集し、発刊した。作成にあたり会員からエッセイやアンケートを募集したところ、「思い出したくないから書かない」という返事もあったという。「本当は震災のときのことはしゃべりたくない」というのが、震災体験者の本音である。そこをこらえて、個々の兵精協会員それぞれが、災害の下でどう動き何を思っていたかを報告したものが本書である。
 1995年1月17日午前5時56分、あの日から7年半。いま、改めて震災を見直してみたい。

【調査研究報告より】
 この報告書には「阪神・淡路大震災後の精神科診療所の定点観測アンケート」調査結果が掲載されている。結果の一部を掲載する。

  • (対象)震災当時、兵精協に所属していた兵庫県下82診療所
  • (方法)郵送
  • (時期)1995年4月(第1回)から半年ごとに2000年2月まで計9回
  • (回答率)第1回:80.5%
  • (被災中心部)
     神戸市東灘区・灘区・中央区・兵庫区・長田区・須磨区・芦屋市・西宮市・宝塚市
  • (被災周辺部)
     神戸市北区・垂水区・西区・尼崎市・川西市・伊丹市・明石市・加古川市・高砂市・姫路市・三木市・加古郡播磨町・加東郡滝野町・朝来郡

図表1.施設の補修費・仮設にかかった費用(1月〜3月、自己負担分)
 被災周辺部にも看過できない被害が及んでいることがわかる。



図表2.仮設住宅入居者の新患の有無
※8回から「震災復興住宅や恒久住宅入居者の新患の有無」に質問変更





図表3.診療再開日


 震災当日から少なくとも数日間、被災地では外来の空白が生じた。被災中心部で当日から診療所を行いえたのは3診療所に過ぎない。これを再開率でみると、全診療所が再開に至るまでにはほぼ2ヶ月要していることがわかる。

 
   
   図表4.診療再開率





【論文より】
 震災から教えられたこと




【エッセイ・座談会より】
 携帯電話やインターネットが普及し、交通手段も発達し、技術の進歩により生活は日に日に便利になっていく。が、この報告書を読み進むにつれ、このような災害の危機をのりこえるのに必要なのは、技術よりも何よりも人間の想像力なのだと気づいた。
ほんの一部ではあるが、実体験に基づく貴重な話を紹介したい。

  • 「謎の偽医者」
     日赤の医者と称する男は、聴診器を首からかけて、避難所の人々に「熱はないか?」「お腹の調子はどうや?元気か?」と次々と声をかけ、みんなからも信頼されている様子であった。約1ヶ月後、その男が突然姿を消してしまった。日赤に問い合わせたところ、そんな男はいないとのことだった。日頃、医者は病院という建物の中で、白衣を見にまとい、いろんな検査器具を駆使し、看護婦をはじめスタッフからは先生と呼ばれて、医者は医者と認知されている。そういった条件が一切なくなった状況では、何をもって医者と認知できるか。そんな問いかけをその男は投げかけたかったのか。
  • 「アルコールの功罪」
     ある避難所の片隅では昼間から酒盛りがなされていた。支援物資の中に多くのアルコール類が含まれており、酒飲みはただで酒にありつけることになった。地震後しばらくして私が診ることになったアルコール依存者の多くは、この避難所において飲酒量が増えてしまったと語っている。被災地にアルコールを送ることは慎むべきであろう。アメリカの災害マニュアルでは支援物資にアルコールは入れないし、避難所は禁酒と聞いた。
  • 「患者に支えられて」
     医師として、震災後避難所を巡廻したり、心のケアセンターでの業務に携わり、形の上では援助者であった。が、被災され多くを失いながらも生き続ける方々の姿勢に敬服し、またその為に心の病の発症や再燃に苦しみながらも生きてこられた患者の方々に、胸打たれながら仕事をしてきた。そして時として希薄になる自身の存在意義に何かを与えていただいたように思う。
  • 「ダンボールのボードでコミュニケーション」
     ああいう時は、何らかの形で患者さんとのコミュニケーションを取る方法を持っておかないといけない。僕は、ビルの1階にダンボールでボードを作り、そこに紙を貼り、ボールペンをぶら下げて患者さん用の掲示板を作った。「うちは10時から2時です。伝えたいことがあったら、この掲示板になぐり書きして下さい」と。こんなのは書いてくれないだろうなと思って次の朝見たらもういっぱいで。中には保険会社から「先生大丈夫ですか」とか。これは役に立つなと思って毎日貼り変えて、またその返事を「だれだれさんへ」と書いた。あのボードは役に立った。こちらからリアクションできるから。
  • 「ボランティアとのトラブル」
     被災者とボランティアの心温まる交流を多く目撃したが、なかには援助が一方的過ぎていくつかのトラブルも生じた。
    軽躁状態のボランティアが受診の意志の全く無い人を受診させようとして喧嘩になり、何とかしてもらえないかと、電話をしてきたことがあった。
    往診してやっと私の診療所に通院するようになった慢性の分裂病の患者が、ボランティアをはじめ福祉事務所の職員、研究諸機関の調査員、自治会の役員、とあまりの来訪者の多さにおびえ、鍵をかけて部屋から何日も出てこなくなったこともある。
  • 「マスコミ不信」
     マスコミは一応インタビューして、適当に編集して、向こうの言わせたい所だけを流す。あれは本当に不信感に陥った。中央区ではタクシーをマスコミに全部借りきられていて、マスコミが乗っている車だけがびゅんびゅん走っている。マスコミは僕が喋っているのに、「ああ、これで、今夜の〆切に間に合う」と言う。ホテルに泊まりに行こうとして、ホテルに電話しても全部空いていない。「ガスが出ない」とか言われて。でも、実はマスコミが入っていた。マスコミだけを受け入れていたのだ。
 こうして書いてきたものも、震災体験者にとっては「都合のいいところだけ抜き出した」と、感じられるかもしれない。しかし、「事実は小説より奇なり」。体験者しか知り得ない事実を少しでも多くの人に知ってもらいたかった。想像力の幅を広げる一助となれば、との思いで紹介したことをご理解いただければ幸いである。

【資料】1995年1月24日付、谷本神経クリニック発信のFAX。この頃より内部間の情報交換が可能になった。