麻酔科医の役割

周術期の事故を減らすためにできること

麻酔は単に痛みや意識を取り除くばかりではなく、手術中の患者の全身管理という重大な責務を担っている。麻酔という行為自体が時として危険を伴うものでもある。東京逓信病院(千代田区・木村哲病院長・514床)麻酔科部長兼手術部長の平石禎子医師に、麻酔による医療事故を含む周術期全般の事故の特異性と、麻酔科医が対応可能な対策について話を聞いた。

―麻酔による医療事故には、どのような特徴があるのでしょうか。

「麻酔をかける」ということは、意識を消失させ、自発呼吸を止め、反射を抑制させて痛みを感じなくなる状態を短時間のうちに薬理学的に作り出すことです。その結果、術者は手術しやすくなり、患者は痛みばかりでなく手術によるストレスを感じないで済みます。しかしその一方で生体は一時的に調節機構が破綻し、内部環境の恒常性を保つことができない危機的な状況下に置かれることになります。麻酔で使用される薬は、麻薬、筋弛緩薬など劇毒物として金庫管理を要求されるような危険な薬剤が多く、人工呼吸器を組み込んだ麻酔器の操作も必要となります。また出血など手術によるトラブルばかりでなく、心筋梗塞、肺梗塞などの重篤な合併症により、循環動態が急変するという切迫した状況で処置をしなければならないことも少なくありません。

こうした状況下で事故が生じると、短時間のうちに生命を脅かすような重篤な状態に陥る可能性が高くなります。さらに、麻酔科医と患者との接触は手術前のごく限られた時間のみであることから、ひとたび手術中にトラブルが発生すると、麻酔科医に対する患者や家族の不信感が一気に増大してしまう傾向があります。手術中の事故の主原因が手術によるものであっても、麻酔科医は患者の全身管理を担っている者として、完全に責任を逃れることはできません。このことはすべての麻酔科医にとって大きなストレスとなっていますし、ほとんどの外科医や患者に理解されていない点だと思います。

―一般に「麻酔は手術の添え物」という捉えられ方が強いように感じます。手術中、麻酔科医はどのような仕事をしているのでしょうか。

麻酔科医は、単に痛みや意識を取り除くばかりではなく、手術中の患者の全身管理という重大な責務を担っています。麻酔下の生体は血圧や心拍数、体温、呼吸状態などが変化しやすい状態にあるため、麻酔科医は常に患者やモニターをチェックし、異変があれば即座に対応できなければなりません。何時間にもおよぶ手術でも、注意力や集中力を持続させながら患者の生命の安全を監視することが求められます。

一般に、手術室では術者(外科医)が主導権を握っているような印象があります。しかしどれほど熟練した外科医であっても、大きな手術を行いながら患者さんの全身管理をするのは難しいといわざるを得ません。そこで麻酔科医が全身管理を担当することで、手術医には安心して手術に専念してもらう、というように役割分担をすることが必要なのです。つまり、手術中、患者さんの命に対して全責任を持つのは麻酔科医だということです。ですから術中出血が多くなるなどの理由で安全が確保できないときには、麻酔科医の判断で外科医に手術を中断させることもあります。

近年は臓器ごとの専門性が高まった反面、自分の専門分野以外の臓器に関しては全く無関心という外科医が多くなってきました。がんばかりに目が行って、肝心の重篤な合併症にはあまり関心がないこともあります。周術期をトラブルなく乗り切るためには、多方面からのリスクを評価し、その対策を怠らないようにしなければなりません。全身管理のスペシャリストとして麻酔科医の存在は、今後ますます重要になっていくでしょう。

―手術における安全管理の要は麻酔科医ということですね。手術中ばかりでなく、手術の前や術後に行う仕事も多いのでしょうか。

麻酔の方法はどの患者さんも同じというわけではありません。麻酔科医は、個々の患者に適した麻酔方法を選択し、麻酔によるリスクを最小限に留めるために、手術前に患者を診察し、患者の状態や麻酔時におけるリスク要因を把握します。さらに、そのリスクを患者さんや家族に説明し、納得してもらうことが重要です。術者サイドばかりでなく麻酔科医サイドからのリスクの説明は、手術後の合併症に対する理解にも大きく貢献できると思っています。また、単にリスクを評価するばかりでなく、心筋梗塞、脳梗塞、肺梗塞などのハイリスク患者に対しては、主治医と協力し、できる限りの予防策を講じるようにしています。

当院の場合は手術数日前から前日までに担当の麻酔科医を決定し、手術前日までに患者の病状や病歴、体質、服用している薬などのデータを調べています。短い時間で患者さんの情報を把握するのは大変ですが、電子カルテシステムを導入してから、非常に迅速かつ正確に個人のデータを確認できるようになりました。電子カルテシステムは(1)患者さんがかかっているすべての診療科のデータを多くの人を介さずに情報を得ることが可能(2)必要な情報のみを選択して引き出すことができるので無駄がない―などさまざまな利点があります。限られた時間の中で効率よく情報を得るための強力な武器といえるでしょう。もちろん電子カルテの情報を最大限に生かすために、CT、MRT、心エコーを読影する能力や、検査値などから患者さんの状態を判断する能力が麻酔科医には求められます。

また、麻酔科医の仕事は手術終了と同時に終るわけではなく、術後の鎮痛や術後の合併症に対する配慮など、周術期全般にわたっています。

―周術期全般の医療事故をできるだけ減らすために、どのような対策が求められているのでしょうか。

事故をできる限り減らすためには、外科医と麻酔科医で患者の状態やリスクをダブルチェックしていくことが重要になると思います。しかしいまだに麻酔科医の役割が周囲に認識されておらず、麻酔科医が十分に能力を発揮できていない医療現場が全国に数多く存在します。安全管理に口を挟めない、あるいは外科医主導で患者の安全が守れない、という環境の中で働いている麻酔科医も少なくありません。こうした職場環境では遅かれ早かれ麻酔科医のモチベーションは低下して、働き続けることができなくなります。まず、麻酔科医がプライドを持って働けるような労働環境を用意することが必要でしょう。

なお、ある程度大きな病院では、業務の頂点に手術が位置付けられていますが、手術件数は、外科医のマンパワー(人数)、手術室の数、手術室勤務の看護師の人数で決定されていて、麻酔科医のマンパワーはほとんど考慮されていないように思います。麻酔科医が不足している病院では、かけもちで複数の患者の麻酔を担当したり、一日中休みなく働いたりという過重労働にならざるをえません。必然的に、注意力や集中力、判断力が低下して、医療事故は発生しやすくなります。手術数に見合った、十分な数の麻酔科医を確保することが理想です。そうすればパートの麻酔科医も勤務医として戻ってくると思います。

現在当院には常勤の麻酔科専門医が6名おり、そのうち4名は指導医です。この人数で6つの手術室とペインクリニックの外来及び緩和医療を担当していて、多忙ではあるもののほかの病院に比べると恵まれた環境です。また手術部長は麻酔科部長である私が兼務していることもあり、麻酔科医が手術の統括をしているという意識はスタッフの間に浸透しています。そのせいか外科医や看護師は麻酔科医に協力的で、おかげさまで30年以上、麻酔事故は起きていません。

―周術期には、術者の外科医だけでなく、ほかの診療科の医師や看護師など、多くのスタッフとの連携も必要になります。チーム医療の中で、麻酔科医はどのような役割を果たしているのでしょうか。

病院では、同じ職種のスタッフ同士、あるいは同じ診療科のスタッフ同士という「縦の関係」は強く結ばれています。例えば看護師のグループでは、看護部長をトップに新米の看護師までしっかりとした組織ができていますし、診療科ごとの医師同士の関係も同様です。しかしその一方で、他職種とのつながりや各診療科のつながりなど、いわゆる「横の関係」は作りづらいという特徴があります。病院の医療の質の向上や安全管理にはこの横糸をいかにうまく縦糸に絡ませていくかが大切だと思うのです。手術はさまざまなスタッフが一堂に会して行うチーム医療ですから、連携が取れていないとうまくいきません。麻酔科医が上手に横糸の役割を果たして、スタッフ間に強固な横の関係を結んでいければ、チーム医療はうまく運んでいくのではないでしょうか。

―東京逓信病院では30年もの間、大きな麻酔事故は起きていないと伺いました。インシデントが生じたときは、どのようにその後の事故防止に生かしているのでしょうか。

インシデントも防げればいいのですが、手術は人間がやることですから、どんなに注意していてもミスが起きることはあります。数は少ないものの、当院でも手術中にインシデントは起きています。また研修医の小さいものを含めれば多数あります。

責任者へのインシデント報告はどこの病院でもやっていると思いますが、それだけではその後の事故防止にはなかなかつながりません。報告されたインシデントをスタッフ全員が共有すること、つまりミスを自分のこととして捉え、対策を持ち寄り、それを全員で実行することが大事です。インシデントという情報の共有化が最も重要と考えていますので、当科ではごく小さなインシデントもすべて毎日日誌に記載するほか、普段から互いが自由にものを言えるような人間関係を作るように努めています。

―医療事故防止には、インフォームド・コンセントも重要とされています。麻酔科医が術前に患者さんと接する時間は限られていますが、リスクを含んだ麻酔という医療行為について、患者さんにはどのように説明していますか。

近年、「インフォームド・コンセント」という言葉はかなり浸透してきましたが、現在でも「手術に関する説明は受けていても、麻酔に関する説明は受けていない」というケースは少なくありません。

そこで当院では、手術前の麻酔科医の回診時に、説明書を用いて、患者さんやご家族に麻酔にかかわる説明しています。ひとくちに麻酔といってもいろいろな方法があり、リスクも異なり、またなぜ我々がその麻酔法を選択したのか情報を開示し、患者さんに納得してもらう必要があるからです。一般の人の麻酔への理解は十分ではないので、文書で確認しながら説明し、安心して手術を受けてもらうように努めて
います。

インフォームド・コンセントは、医師の責任逃れや過失を許すためのものではありません。医師と患者が意思の疎通を図り、信頼関係を築いた上で手術に臨むことが理想といえるでしょう。


平石 禎子麻酔科部長
プロフィール

東京逓信病院の平石禎子(ひらいし ていこ)麻酔科部長。日本麻酔科学会指導医、日本ペインクリニック学会専門医。経験27年のベテランで、手術部長を兼任している。


2008年6月25日(企画・取材:熊谷わこ)