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医療安全のカギ握る医師の報告行動 名大医学部が国立系で初の専任教授

「逃げない、隠さない、ごまかさない」。医療安全に対する立場を明らかにした名古屋大学附属病院の院是である。名大病院が経験した複数の事例から導かれたこの姿勢には、すべての医療機関に通用する普遍性がある。医療安全への社会的な関心の高まりに応じて、名大病院は2002年に「医療の質・安全管理部」の母体を創設。医療安全担当の副院長が部長を兼務するなど、この分野では早くから、実践的な活動を続けている。こうしたなか、名大病院は昨年(2011年)4月、同部に正規の専従教授と専従医師を配置した。国立大学医学部では初となるこの人事は、医療安全に対する名大病院の強い思いを改めて内外に示した。京都大学医学部附属病院医療安全管理室長から転じた長尾能雅教授に就任前後の状況や手ごたえなどを聞いた。

長尾能雅教授
長尾能雅教授

これまでの経験を古巣で生かす

「高度な医療を無事に提供するため、全国に先駆けて医療安全の体制を整えたい」――。長尾教授の転籍は、松尾清一名大病院長のそんな願いから動き始めた。大学病院という性質上、名大病院では先進的な医療が数多く行われている。先進医療には、それを導入することで患者の治療に大きく貢献することが期待される一方、十分な蓄積がない分、一定のリスクを覚悟しなければならない面がある。その意味で、先進医療と医療安全とは表裏一体の関係にあるといえよう。

松尾院長が着目したのは、医療安全管理室長として、京大病院で数々の実績を挙げていた長尾教授の豊かな経験と指導力であった。長尾教授に転籍の気持ちを固めさせたのは「医療安全を一層充実させるために、教授職を配した本格的な組織をつくりたい」という松尾院長の信念に満ちた言葉であったという。

もっとも、長尾教授にとって、名大病院は第二内科から呼吸器内科の医員として数年間を過ごした古巣であり、右も左も分からぬ職場ではない。当時の長尾教授は、呼吸器内科医として勤めるかたわら、いわゆるナンバー科体制から臓器別体制への移行に伴う科内手法の標準化に取り組んでいた。診療科再編の過渡期ならではの事情で、検査方法や治療方法などが統一されていなかったからだ。

そうした作業と併せて、医療安全の標準化にも関わるようになったが、04年、関連病院への赴任を機に、第一線から遠ざかる。そして05年には、さらに医療安全を極めるため、京大病院に移り、医療安全管理室長として、准教授まで勤め上げた。医療安全に関して、日本を代表する大学病院と目される名大と京大双方の特徴を知っているのが長尾教授の強みであろう。

京大病院の経験と成果を名大病院で生かす
京大病院の経験と成果を名大病院で生かす
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高く評価された名大病院方式

名大病院の医療安全活動に関わる歴史を辿ると、00年院内に組織された「リスクマネージメントチーム」に行き着く。時あたかも、医療事故対策元年と言われたころで、全国の国立大学医学部附属病院には文部科学省主導で専任リスクマネージャー(GRM)が置かれるようになった。02年には、このチームを改組して「医療安全管理部」を設置した。コアメンバー6人という小所帯であった。

06年には「医療の質・安全管理部」に改称。「医療安全管理部」が組織された年に起きた「名大病院腹腔鏡術中大動脈損傷事例」は名大病院の真摯な医療事故対応を内外に知らせたという点で画期的だった。

「逃げない、隠さない、ごまかさない」という態度で臨んだ、この事例の事故調査は他の多くの医療機関が参考にしたといわれる。

特に評価されたのは、事故調査を外部委員(患者側弁護士、ジャーナリスト、他大学の医師)主導で進め、その情報を公開すると明言したことだ。「名大病院にはその経験を踏まえた姿勢が今も脈々と引き継がれている」(長尾教授)。

医療行為でもある医療安全

長尾教授が今回の就任に際して重視したのは「治療に軸足を置いた医療安全」である。「医療事故や副作用など、医療行為に伴うリスクは避けられない。実際、医療行為が引き金となって、新たな重症疾患を発生させることもある。このような有害事象をできるだけ減らすように努めることが病院の責務。その意味で、医療安全は医療行為のひとつ」(同)というのだ。

日本人の死因のワーストスリーが悪性新生物、心疾患、脳血管障害であることはよく知られているが、長尾教授によると、医療事故による死亡者は年間4万人と推計されている。集計上、単独の死因としてカウントされないが、数字だけで見れば、肺炎に次ぐ第5位に匹敵する規模だ。これを名大病院クラスの医療機関に当てはめてみると、年間30〜50人が対象者となる勘定だ。長尾教授が治療を重視するバックボーンである。

長尾教授の就任に伴って「医療の質・安全管理部」は教授以下、専従医師、看護師、弁護士、事務職員から成る計11人の組織に拡充された。このほか、同部が連絡役を務める格好で、院内の全部門にクオリティ&セーフティ(QS)マネージャーを配置。QSマネージャーは医師48人、看護師42人、コメディカル23人、その他8人の計121人で構成される。

部門セーフティマネージャーの責務
部門セーフティマネージャーの責務
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QSマネージャーのバッジ
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風通しがよく、足腰の強い集団に

同部の掲げる活動の要点は、

  1. 治療中の不測のトラブル等に対し、病院全体で対応できる治療体制の構築
  2. 全部門からのインシデント情報の集積と分析、事故予防策の検討
  3. 医療事故等に対する第三者による客観的事例調査、原因究明と再発防止策の指導
  4. 院内の各種安全マニュアル、標準対応指針などの策定、各部門との連携
  5. 院内研修、学生教育による安全意識の高い医療者の育成と、安全文化の醸成

――である。

主な項目について、長尾教授の考え方に基づくあらましや具体的な事例をみていこう。

まず「不測トラブルに対する病院全体での対応」として、心臓の周りに水をためて生まれてきた未熟児の救命例がある。

このような事例は従来、単科で対応していた。その体制が心ならずも、不測の事態を招くことがある。そこで、今回、同部が関わることで他科にも参加を呼び掛けた。未熟児から水を抜くという措置には高度な技術が必要とされるからだ。QSマネージャーを通じて、心臓血管外科、循環器内科、小児科、小児外科の医師が要請に応えて顔をそろえた。

一刻を争う状況のなかで、水を抜くための針を誰がどのように刺すかを検討した結果、小児科医が担当することになった。心臓疾患なので循環器内科医も候補に挙がったが「自分が行っては技術の発展がない」との理由で、循環器内科医はサポート役に回った。ただし、文字通り「不測の事態」に備えて心臓血管外科と小児外科の医師も立ち会った。

「複数科のエキスパートが関わるこうした取り組みこそ、市民が求める理想の姿ではないか。組織の壁に阻まれていては決して実現しなかったことだ。このような経験を積むことでセクション間の風通しが良く、足腰の強い集団になるはず」(同)という。

安全を目指す力 その1
安全を目指す力 1
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安全を目指す力 その2
安全を目指す力 2
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就任初年度の報告数は8893件

次に『インシデント情報の集積と分析』はどうか。長尾教授によると、11年度は年間8893件の報告を受けたという。院内のさまざまなリスクを抽出する「インシデント報告」が仕組みとして根付いている証しだ。

単純ミスや医療行為に伴う副作用、ヒヤリ・ハットなど報告内容は多岐にわたる。これらを分析し、改善サイクルを常に回すことも、同部に委ねられた大きな仕事である。

「肝心なのは数の多寡ではなく、隠さずに報告として上げるという体質。事故の再発防止にはどんな小さなことでも確実に報告される仕組みをつくることが大切」(同)だからだ。同部は報告を受けると、前述の未熟児救命時のように院内の専門家による治療チームを立ち上げて問題解決を図ったり、部門横断的な組織をつくったりして改善を進める。

名大病院の事例ではないが「インシデント報告」が刑事犯罪の解決に寄与した経験を長尾教授は京大病院時代に複数経験している。「母親による汚染水注入殺人未遂事件」(08年)や「看護師によるインスリン殺人未遂事件」(09年)などだ。いずれも主治医からの報告が端緒となり、犯人逮捕や患者救命に実を結んだ。

「どちらも、高い危機管理能力と報告文化が功を奏したもの。こうした経験を踏まえた実践的な取り組みを名大病院でも広め、精度に磨きをかけたい」と長尾教授は語る。

レポーティングの意義
レポーティングの意義
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2011年度は5件の事故調査を公表

また『医療事故などに対する調査』では外部の専門家を交えた医療事故調査委員会を適宜開き、報告結果を明らかにすることで名大病院としての姿勢を訴える体制を整えている。長尾教授就任初年度の11年度だけに限れば、
「大動脈損傷の出血性ショックにより死亡に至った事例」(5月17日=会見日、以下同)、
「ロボット支援手術システム『ダ・ヴィンチ』を用いたロボット支援腹腔鏡下幽門側胃切除を受け、術後5日目に死亡した事例」(6月7日)、
「名古屋大学医学部附属病院を受診した高齢女性が、その翌日他院に搬送され死亡した事例」(9月8日)、
「カンガルーケア時に発生した医療事故について」(10月26日)、
「院内製剤プロゲステロン膣坐剤のプロゲステロン含有量不足事例」(12年2月28日)
――の5件を記者会見で公表した。

「医療事故を想定した改善の仕組みを整えたり、透明性を確保したりすることは病院が本来備えておくべき基本的な事柄。だからこそ、正確な事実に基づいて患者さんや社会に対してきちんと説明する責任がある」と長尾教授は言い切る。

報告文化をいかに根付かせるか

先進医療の導入で医療事故のリスクが高まると、旧来のような単なるヒヤリ・ハットや業務上のミスの報告よりも、医療行為に伴う疾患の発生の把握と適切な対処が大きな意味を持つようになる。情報を迅速に共有し、病院総体として治療にあたれば、被害を最小限に抑えることができるからだ。

医療安全の歴史を振り返ると、これまでは名前の確認、指差し確認などの「確認行動」に力点が置かれていた。「無論、それも大切だが、ますます高度化する先進医療に歩調を合わせるためには医師の意識を高めること」と長尾教授は力説する。「それだけに、インシデント報告に占める割合が低い医師の比率をいかに増やすかがカギになる」(同)。リスクの高い作業に関わる医師の報告はより重要な意味をもつと考えられるからだ。長尾教授が「報告文化」を根付かせることの重要性を説く狙いはその点にある。

医療安全の推進役として名大病院に復帰して1年強。11年度のインシデント報告は総数、医師分ともに前年度を上回り、過去最高だった08年に迫る実績を残している。長尾教授はこの間の手ごたえを「報告行動が息を吹き返した」と捉えている。「後ろ向きのことを伝えるのだから、警戒感があれば報告が上がってこない。にもかかわらず、上昇基調にあるのは安全文化の成長の証といえる」という。

報告文化をきちんと根付かせ、報告が導く成功体験を増やしていくことが医療安全に弾みをつけると長尾教授はみている。

名大病院インシデント報告数の推移
名大病院インシデント報告数の推移
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医療の質・安全管理部のスタッフと
医療の質・安全管理部のスタッフと
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プロフィール

長尾能雅(ながお・よしまさ)氏略歴

1994年群馬大学医学部卒業。土岐市立総合病院での全科ローテートを経て、99年公立陶生病院呼吸器・アレルギー内科医員。2001年名古屋大学医学部第二内科学教室医員。03年同附属病院呼吸器内科医員。04年土岐市立総合病院呼吸器内科医長。05年京都大学医学部附属病院医療安全管理室室長・助教。08年同講師。10年同准教授。11年名古屋大学医学部附属病院医療の質・安全管理部教授兼病院長補佐。医療の質・安全学会評議員、日本病院会医療安全対策委員会医員、日本看護協会医療安全推進委員会委員など、この分野の要職を務める。医学博士(分子総合医学専攻・呼吸器内科学)。1969年7月、鳥取県生まれ。

連絡先:名古屋大学医学部附属病院
医療の質・安全管理部
名古屋市昭和区鶴舞町65
TEL/FAX:052-744-2940
URL:www.med.nagoya-u.ac.jp/anzen/

長尾能雅教授
長尾能雅教授

2012年7月10日(企画・取材:伊藤公一)