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日野病院、震災、その時わたしは

2002年1月
医療安全推進者養成講座:医療施設管理論担当
佐 藤 文 保
(序 )

 鳥取県西部地震体験記「 地域病院のめざす坂の上の雲」− 震災、その時わたしは−
(平成13年10月6日発行 日野病院組合 日野病院)が発刊されました。


 この地震がまれに見る大地震であったにもかかわらず、74人の入院患者を全員無事に避難させたという事実を素晴らしい教訓として、拝読したいと思います。本誌の願いである「今後の自然災害等緊急事態発生時に少しでも役に立つことを」(日野町長)の言葉を真摯に受け取りたいと思います。
 体験記はそれぞれの皆様のこころの震えまで感じさせる生々しいものですが、医療人としての冷静さを備えた力強いものです。

 この地震に関して私が日医総研より連絡を受けたのは、2000年10月9日でした。被災直後に現地入りして、被害状況を中継していただいたのは、広島国際大学の谷田助教授でした。
 病院建物が到壊の危険性があるため立ち入り禁止となり、必要な医療機器、器材の持ち出しができず、堀江院長の行っている被災住民医療活動に、緊急援助が必要であるということでした。同10月12日、堀江院長、生田日野町長から連名の援助要請趣意書と21品目の緊急医療機器リストを受け取り、すぐさまメーカー各社にこの援助要請を伝えました。メーカー各社は快く要請を受けていただき、必要な援助を行うことができました。
翌年、米子市での仕事があり、日野病院を訪ねる機会を得ました。
 2001年2月10日、米子市からのレンタカーのカーナビに案内されて、到着した日野病院には、人影がありません。カーナビは旧病院に案内してくれたのでした。痛々しい姿の旧病院は被災当時を十分想像させてくれました。
新病院はすぐ近くの川向こうにあり、地震にビクともしなかった新病院を堀江院長の案内で見学させていただきました。
 入院患者さんの枕元には、院長手ずから墨痕鮮やかに歌がしたためられ飾られていました。まさに、「地域病院のめざす 坂の上の雲」を拝見する思いでした。
 本文は日野病院の初動活動の20分にスポットをあてて考察したものです。
医療機関の地震対策のお役に立てればと思います。

  1. 日野病院にみる震災初動20分のドキュメント
     2000年10月6日 マグニチュード7.3 震度6強の鳥取県西部地震に日野病院は揺れた。
    ゆらゆらという横揺れの後、突然お尻から突き上げられるような衝撃を受けた。(辻本医師)
    被災直後、全員が患者避難を考えた。病院の建物が老朽化していること。新病院が建ちあがって2ヶ月後に移転の予定であったこと。棚が倒れ、壁が剥がれ、電気が消え、病院の看板が崩れ、高架水槽が傾きなどする中、建物そのものが崩れてしまう危険を共有していた。午後1時30分、昼食後であり火器は使用していなかった。中秋の晴天の昼下がりである。病院前の駐車場には数台の車、広々としている一部が陥没した。
    余震でもう一度揺れたら建物が危ないと誰もが思った。患者さんを非難させなきゃ、と誰もが考えた。
    考えると同時に誰もが行動を開始していた。独歩の患者さんにはロープで誘導、寝たきりの患者さんはシーツ担架で階段を降りた。3階から、2階、1階へと降りた。途中転ぶ人もなく、動転して泣き叫ぶこともなく、整然と避難した。寝たきりの患者さんはストレッチャーに、お年寄りはソファーに、車椅子に。最小限必要な医療器材と医薬品が持ち出された。2階3階へ駆け戻った看護婦さんがさらに持ち出したのは、それぞれの患者さんの身の回りの物であった。
     危険を冒したこの行為はどう評価されたか。患者さんは涙をもって感謝した。
     患者さん74名全員の避難が確認された。20分がたっていた。副院長が災害対策本部長についた。3階病棟婦長が総婦長代理に命じられた。(院長、総婦長とも出張中であった。)外は暖かく、大きな不安はまだやってこなかった。身の安全が確保されると、家族のことが案じられた。皆が忙しく動き回る中、電話を頼むわけにはいかないと思った。家族が心配してかけてきた電話を伝言として伝えてくれた。(患者 松原さん)
     患者さんが無事なことも家族に伝わり、また涙があふれた。3時を過ぎると日が傾く、4時すぎには日が落ちる。しかし、これから先は多くの人達の献身的協力によって、避難と転院が実行された。
     何が幸運であったかは、以上の中で明確である。特徴的なのは、「患者避難」という意識が瞬時に全員に起こったことである。通常、災害時のマニュアルでは、自身の身の安全を速やかに確保すること、
    次に家族、身内の安全を確認すること、そして、周囲の人達の安全に対処すること、
    となるのが今まで言われていることである。
     日野病院の場合は、明らかな倒壊と火災がなかったことが、停電になっても昼間の視界のきく中ですぐに確認されたことにより、意識が患者さんへと集中したのではと推測される。さらには、古い建物であり、二次被害の不安がすぐによぎり、「患者避難」の共通意識が増幅されたと思う。
    指揮、命令者がいなくても、各人が自分の役割を見出し、整然と行動できたのは、この共通意識のおかげである。
     被害を最小限に防ぐ為にはこの様な共通意識がいかに速やかに形成され、実行されるかにかかっている。
    防災避難訓練では、共通意識の定着は可能であろうか。緊張感のない型どおりの訓練は端から見ると滑稽にさえ見えることがある。仮に緊張感を持つようにと号令されても、そこから共通意識の定着を意図するには様々な工夫が必要であろう。日野病院では日頃の消防訓練の下地があった。(入江 総務課長)

     阪神大震災の経験から、甲南病院の内藤先生は次のようにおっしゃっている。
    「現在、地震は国民が思っているほど予知できないことが専門家によって報告され話題を呼び、従来の震災対策の見直しが求められている。では、医療に携わる者として、阪神大震災の教訓をどういかすべきか。
    1. 医療者は自己防衛(家族を含めた)をすること
    2. 自己防衛が可能な時、医療者として次にどのように動くかを考えるべきだと言うこと
    3. 医療機関としては、四十八時間をめどに対策をたてるべきで、これ以上の時間的対策はコスト面からも無理があると考える」
    この言葉の中で2の中程の「医療者として次にどのように動くか」という部分に共通意識が形成されれば良いのである。
    医療提供施設(病院、診療所等の建物)を利用できるのか、危険で放棄すべきなのか、
    このことが最初の揺れが治まってすぐ判断できることが必要である。自分が無傷で動ける場合、全ての医療者は患者の安否を第一に確認することである。火災と倒壊のおそれがある場合は無条件に患者避難開始である。

    医療継続か避難かの選択を誰かに仰ぐ必要はなく、患者の安全確保に何が必要かの決断をするだけである。
    ここでは、待機か避難かの二つの選択となろう。
    「待機」とは、そこそこの揺れで誰もが大した事はないと感じ、情報確認の余裕がある場合である。
    電気も消えず、水道断水もなく、火災の危険も無いようだ、震度3の弱震程度の場合である。
    器物が倒れ、歩いていても揺れを感じる、震度4の中震クラスまでは待機であろう。
    「避難」については、判断に迷いが出るとすれば次の震度5の強震の場合であろう。壁に亀裂が入り、墓石が倒れ、石垣が崩れるクラスである。

    日野病院は震度6+、マグニチュード7.3の直下型の烈震であった。誰もが「避難」と考えておかしくない。
    震度6+とは家屋の倒壊30%以下、山崩れがおき、地割れが発生し、立っていることが出来ない地震である。
    (阪神、淡路大震災は震度7、マグニチュード7.2の直下型激震であった。避難したくても、倒壊のため、火災のため、多くの人は避難できなかった。)
    震災は発生時間帯によって被害の規模に大きな違いが出る。季節、天候、活動状況によっても大きく左右される。
     日野病院は大震災に見舞われたにもかかわらず、多くの幸運を味方につけて、見事にクライシス.マネージメントを実行できた素晴らしい経験として捉えることができると言えよう。初動:20分の患者避難が全ての幸運を引き寄せたのだとの感想を職員の皆様の生々しい手記から得ることができた。

  2. 日野病院:九つの不幸中の幸い(幸運)とその裏側をみる    

    1. 「地震発生時間」 が午後1時30分だったという幸運 これまでの多くの犠牲者を出した災害は深夜もしくは早朝であった。(震災関連資料より)
      • (1993年7月12日 22:17 M7,8 北海道南西沖地震 深夜)死者230
      • (1995年1月17日 05:46 M7.2 兵庫県南部地震 早朝)死者5500
      • (1946年12月21日 04:19 M8.0 南海地震 早朝)死者1330
      • (1960年5月24日 03:10~04:40~pm5:00チリ地震津波 早朝) 死者142
      • (1994年1月17日 04:31 M6.7 米国ノースリッジ地震 未明) 死者61
      • (1999年8月17日 03:02 M7.4 トルコ、コジャエリ地震 未明) 死者17.262
      • (1999年9月21日 01:45 M7.7 台湾、集集地震 深夜) 死者2.399

    2.  では、昼間の災害はどうであったかというと、
      • (1923年9月1日 11:58 M7.9 大正関東大地震 ほぼ正午)死者14.2万
      • (1978年6月12日 17:14 M7.4 宮城県沖地震 夕方 )死者28
      • (1968年5月16日 09:50 M7.9 十勝沖地震 まだ昼前)死者48

       関東大震災では昼飯時で直後に火の手があがり、焼失戸数は37万8000戸であった。宮城県沖地震では屋外のブロック塀や門柱の下敷きで死亡した人が18名を数える。十勝沖地震では昼間の食事時をはずれた時間であったため、火災の被害は無く山崩れや、土砂崩れで亡くなっていた。

       日野病院の午後1時30分というのは、火災発生の危険のギリギリの幸運と言えよう。他の震災では、犠牲者の多くは火災で亡くなっている。朝、昼、夕ともに食事の支度時は大変危険である。日野病院の場合、火災を引き起こさない幸運な時間の地震発生であった。

    3. 「季節、天候」 が秋の陽気の良い昼下がりであった幸運
       石油ストーブ等暖房機を使用している時期は危険である。ガス器具、口火も含めて、耐震自動消火機能を備えた器具を使うよう心がけねばならない。病院の場合、はだか火を使った暖房はないと思うが、厨房のガス器具の口火は就業時間中は概ねついたままになっている。「地震だ、火を消せ」は昔からの標語である。どんな季節でも、どんな時間帯でも、極端に言えば、下敷きの人が目の前にいても、その人を助けるより先に「火を消せ」である。冬の夜の吹きすさぶ寒風の明かりもない屋外に避難、という事態であれば、誰もが躊躇するであろう。
       阪神、淡路大震災(兵庫県南部地震)ではそんな場面に火の手が迫ったのである。
      日野病院では、患者さんを駐車場に避難させ、対策本部も設置され、次の問題に対処するに十分な時間を確保できたのである。
      転院の手配、二次避難先の確保、夕食の手配、院長、総婦長への連絡、住民への医療活動準備、家族への安否の連絡、etc. 陽が落ちるまでの3〜4時間の幸運であった。

    4. 病院建物が到壊にまでいたらなかった幸運
       昭和15年建設、昭和45年増床改修の建物は老朽化しており、この地震では倒れてもおかしくないと誰もが思うほどの揺れだった。そこに、「患者避難」の「共通意識」が瞬時に形成された。この建物の耐震性能がどのくらいであったか。でも、倒壊はしなかった。後日危険に付き立ち入り禁止となった。建物の地震対策には、耐震構造と免震構造とがある。古い建物は、コンクリートが丈夫で割と耐震的であるように思う。でも、倒壊しなかったというのはやはり幸運であった。
       (震災後丸1年を経過した今、旧病院建物は、補修工事により、町の施設として健在である由、もれ聞いている)
       
       
    5. ライフラインが曲りなりにも機能していたという幸運
      • 停電、断水が局所的であったという幸運
      • 保育所に電気がついており、吸引器が使えた。
      • 川水が近くにあり、バケツリレーでトイレ用水が使えた。
      • 職員がスーパーに買出しに行き、パン、バナナ、ヨーグルトを調達できた。
      • 給食さんがガスコンロを借り、おかゆを作ってくれた。
      • 血液センターと直通電話が通じた。
      • 電源の切れた薬用保冷庫に製氷機の氷を入れた。
      • 酸素ガスがセントラルパイピングでなくてよかった。
      • ポータブルの吸引器も酸素ガスボンベもかなりあった。
      • なにしろ全員転院までに必要な最小限のものは間に合わせることが出来た。
      • 体育館の一夜の野戦病院にも電気は使えた。
        
    6. 体育館が無事で二次避難場所が確保できたという幸運
      74名もの患者さんを収容できる建物が、近くにあり使用可能であったこと。そこへの避難を受け入れてもらえたこと。一夜の野戦病院が設営された。
      看護婦さんは声かけを続け、医師は朝まで転院のための添え書きを書いていた。
       
       
    7. 近隣の医療機関が機能していたという幸運
      • 日南病院
      • 鳥取大付属病院
      • 溝口中央病院
      • 国立米子病院
      他、全てが最大の範囲で受け入れてもらえた。
      地震発生から24時間たった翌日の午後2時、患者さんの全ての移送が終了した。  

    8. 道路が全面閉鎖されなかった幸運
      看護婦さんの言葉「一人ずつ救急車が動くごとにとても安心した気持ちになりました。」(吉川看護婦)
      土砂崩れ、陥没、など時間はかかったが車はなんとか通れたのだった。

    9. 新病院の建物が完成していたことの幸運
       移転計画が進行中であり、医療器材の中でも持ち出して新病院で使うものとか、 古くなったので廃棄するものとか、それらの区別ができており緊急時の持ち出し 物の選択に迷いが少なかったものと思われる。
       このように引っ越し準備が進められていたことが、患者全員避難の速やかさに 反映されたのであろう。

    10. 最後に、禍を転じて福となしたこと
      院長と総婦長はその時たまたま不在であった。おそらく多くの職員はそのことを知っていたと思う。知っていたとすると、最初にその不安が大きく圧し掛かってくるのが普通であろう と思うが、逆に、残っている自分たちできちんと対処しなければならないと思う気 持が強く働いたことも想像できる。岡野副院長は院長、総婦長の不在を再確認して、ことにあたった。
      長谷川医師の言葉に
      「確固たる指揮命令系統もなく、各自が自らの判断で全患者、必要な寝具、医療機器、器具を屋外に運び出したのです。」
      「日野病院職員の職業意識、人倫の高さには感動を禁じ得ません」
      この言葉から、院長、総婦長の不在という禍を幸運に作用させた何ものかがあったのではないかと思う。
      もちろん、総婦長が戻り、院長が職員の努力で戻ったあとは、安心してその指揮下に行動することが出来たのだった。
      禍は忘れた頃にやってくるので、そのことばかりを考えて業務に当たる訳にはいかない。起こった禍を福と転じさせる力を組織活動の中で養っておくことが大切なことである。

  3. 震災対策 今できること

    日野病院の教訓から、「まずは命が助かり、必要に応じて避難できること」を準備しておきたい。
    1. 建物の耐震診断を受けておくこと、その結果を周知させておくこと
    2. 建物や什器のガラスは必ず割れるので、その時の対策を立てておくこと
    3. 避難時の履物を用意しておくこと
    4. 棚が倒れたり、ドアが開かなくても使える避難路を確保すること
    5. 就寝時、メガネはハードケースに入れておくこと
    6. 懐中電灯が手元にあること
    7. 誘導用ロープを用意しておくこと
    以上 7点だけを挙げておく。
参考文献
  • 「阪神大震災:震度7が残した108の教訓」荒尾和彦著 小学館 1995.
  • 「災害 放送、ライフライン、医療の現場から」放送文化基金 編集 ビクターエンターテイメント 2000.
  • 「あした起きてもおかしくない大地震」島崎邦彦 著 集英社 2001.
  • 「職場の地震対策ハンドブック」 中央労働災害防止協会 編 発行 1995.
  • 「せまり来る巨大地震」 竹内均 編集 ニュートン別冊 2001.
  • 「病院防災ガイドブック」 石原哲 編 真興交易(株)医書出版部 2001.
  • 「患者に選ばれる病院づくり」 久保田秀男 著 じほう 2001.
  • 「インターネット:Dynamic Design Incホームページ より、免震耐震建築情報 」