HOME >> コンテンツ一覧 >> 医療安全をとりまく動向ここに注目! >> 「リスク認知力を高める事例ドリルの活用法」

リスク認知力を高める事例ドリルの活用法


 インシデント・アクシデントレポートを医療安全対策に活かすには、インシデントやアクシデントの発生頻度や重大性を考慮しながら改善策を検討しなければならない。だが、重大性の認識が職員によってバラバラだと、レポートから的確な対策を導き出しにくい。東京都立豊島病院(東京都板橋区、360床)は、この重大性の認識を職員間で統一させようと「事例ドリル」を作成している。職員のリスク認知力を高める効果もあるようだ。


 
過去の教訓を生かした事例ドリル

 事例ドリルは、インシデントやアクシデントの事例を読みながら、それが豊島病院の「インシデント・アクシデントレポートの重大さの分類」(以下、「重大さの分類」)のどのレベルに該当するかを記入する内容となっている(図表1)。

 例えば、「調剤されて病棟に払い出された内服薬に、別人の患者氏名が記載されていることに看護師が気づいた」という設問の場合、「重大さの分類」は「01」レベルに該当するので、答えは「0」となる。

 「重大さの分類」は、インシデントやアクシデントのレベルを表したもので、生命への危険度に応じて、「01」〜「06」の6段階に分かれており、それぞれ「0点」〜「5点」のリスクスコアが設定されている(図表2参照)。「01」レベルは、間違ったことが患者に実施される前に気づいた事例。「06」レベルは、間違ったことが実施され、そのために死亡、あるいは死因となる可能性が高い事例といった具合だ。同院では「02」までをインシデント、「03」以上をアクシデントとみなしている。

 豊島病院の看護科がこの事例ドリルを作成したのは、2003年にさかのぼる。インシデントやアクシデントが発生した場合に、新規職員が「重大さの分類」を正確に把握し、インシデント・アクシデントレポートに反映出来るようにと開発された。

 そもそもは、当時の看護科長である神田律子さんが「リスクマネジメントに一所懸命に取り組んでも、一向に改善されない」という悩みを抱えていたのがきっかけだ。インシデント・アクシデントレポートを職員に提出してもらう取り組みは02年8月から実施し、さまざまな改善策も講じていた。だが、その手応えを感じられないでいた。同じようなインシデントが繰り返されるのが現実だった。

 ちょうどそんな頃、熊川寿郎さん(医学博士、経営学修士、現在は国立保健医療科学院経営科学部の主任研究官)と出会い、悩みを打ち明けた。熊川さんは、経営手法の1つである「バランスト・スコアカード」(Balanced Score Card、以下、「BSC」)をリスクマネジメントに導入し、それを軸とした新しいリスクマネジメントシステムを構築していた。事例ドリルによるリスク認知能力向上のアイデアもそのシステムに組み込まれていたのである。

 この新しい考え方に共感した神田さんは、02年8月に「看護領域における新しいリスクマネジメント」のプロジェクトを立ち上げ、看護科職員と熊川さんとの共同研究が始まった。

 まず、最初に取り組んだのがインシデント・アクシデントレポートの分析だ。レポートには、インシデントやアクシデントの内容に応じて、生命への危険度が「ない」「低い」「可能性あり」「高い」「きわめて高い」「死亡」の6段階で評価する項目が設けられている。これは東京都が都立病院向けに作成した基準だ。ところが、同じようなインシデントでも、職員によって生命への危険度の判断にバラつきがあることがわかった。都の基準には具体的な内容が示されていないため、職員によって判断が異なっていた。

 「安全対策を検討する場合は、発生頻度と重大性を考慮しなければならないが、重大性の認識が職員によって異なるようでは、対策の優先順位が不明確になるので、実効性のある対策が立てられない」と、熊川さんは当時を振り返りながら、こう説明する。

 そこで、それまでに提出された約600枚のレポートを1枚1枚分析し、都が示した生命への危険度の基準に当てはめていった。すると、レポート報告者の判断とプロジェクトチームの判断が一致したものは全体の約30%であった。そのため、誰もが正確に重大さを測定出来るように、熊川さんの指導のもと、豊島病院看護科は独自に「重大さの分類」を作成。生命への危険度を「01」〜「06」の段階に分け、それぞれ具体的な判定基準を示すとともに、事例も盛り込んだ。

 こうして作られた「重大さの分類」を、職員に周知するために作られたのが冒頭の事例ドリルというわけだ。事例ドリルの設問は30問程度で、実際に同院で起こったインシデントやアクシデント事例から抽出している。まさに生きた教訓とも言える内容だ。

 職員によっては、これまで直面したことのない事例を知る機会にもなるため、同じような事態に直面した際、事前にリスクを回避できるメリットもあるという。ちなみに、生命への危険度が高い「05」と「06」レベルは同院での事例がないため、新聞などで取り上げられた他院の事例を使用している。

 「新規職員の教育で使用したが、事例ドリルに取り組んだグループとそうでないグループを比較したところ、取り組んだグループの方が正確にリスクスコアを評価出来ていた。職員のリスク認知力を高めるのに効果があると思われる」と、同院看護科看護長(看護安全推進委員会のサブリーダー)の加藤美保さんは話す。


安全の質を測るモノサシとしての役割

 この事例ドリルは、前述のBSCを活用した看護科のリスクマネジメントの取り組みにも活用されている。

 BSCは、組織のミッションやビジョンを実現するための手法で、「財務の視点」「顧客の視点」「内部プロセスの視点」「学習と成長の視点」という4つの視点によって、目標達成のための戦略を立てるのが特徴となっている。BSCは基本的にこの4つの視点と、「戦略マップ」、「スコアカード」によって構成されている。

 図表3は、豊島病院看護科が04年度に作成した「リスクマネジメントの戦略マップ」である。看護科のリスクマネジメントのミッションである「私達は医療リスクから患者様を守ります。職員を守ります」を受けて、それを達成するための目標と、4つの視点の因果関係を視覚的にわかりやすく表したものだ。矢印の始点が「前提」を、矢印の終点が「期待」を意味する。

 図表4は「看護科リスクマネジメントのフォーマット(スコアカード)」で、縦軸の4つの視点と、横軸の「戦略目標(重要成功要因)」、「重要業績評価指標」、「目標値」、「実施項目」などで構成されている。

 「学習と成長の視点」をご覧頂くとわかるように、「全スタッフのリスク認知能力の向上」が戦略目標として掲げられ、その達成度を「リスクスコアの一致度」と「事例ドリル正解率」という指標で測定することになっている。

 それぞれ目標値も設定されており、「リスクスコアの一致度」は90%以上、「事例ドリル正解率」は80%以上。その目標値がクリア出来れば、戦略マップにあるように「リスク情報の積極的活用」や「看護ケアの標準化の推進」につながり、さらには「患者への安全なケアの提供」や「スタッフのリスクマネジメントシステムに対する満足」も可能となり、ひいては目標を達成出来ることになるというわけだ。

 仮に目標値をクリア出来なかった場合は、その設定に問題がなかったかどうか、あるいは、どうすれば目標を達成出来るかを検討することになる。


職員のスキルアップにつなげるために

 「リスクスコアの一致度」は、熊川さんをはじめ、専任リスクマネジャーの金沢千恵子さん、看護科長の高野優子さんら看護科の職員6人が、毎月、リスクスコア検討会を開催し、提出されたインシデント・アクシデントレポートをチェック。職員が付けた「重大さの分類」のリスクスコアが正しいかどうかを検証している。その結果、04年度の「リスクスコアの一致度」は92.2%となり、目標値である90%以上をクリア出来た。

 一方、「事例ドリルの正解率」については、看護科全職員を対象に「リスク認知能力判定テスト」を2回実施して測定した。同テストは事例ドリルの中から25問を選出したもの。職員には「重大さの判定基準」を参考にしながら、30分間を目安に解答してもらった。

 1回目のテストは平均点の目標値を80点に、2回目のテストの平均点の目標値は75点に設定した。だが、1回目のテストの結果、平均点は64点となった。最高が69点、最低が57点だった。正解よりもリスクスコアを高く(より重大に)判定しているものが20%、逆に低く判定しているものが14%あった。
 
 2回目のテストの結果は、平均点が72点。最高が91点、最低が58点だった。正解よりもリスクスコアを高く判定しているものは16%、低く判定しているものは12%となった。

 いずれのテストも目標値に到達しなかったが、その要因は4つあるという。1つは、「重大さの判定基準」が職員に十分に理解されていないこと。2つは、職員個々のリスク意識に大きなバラツキがあること。3つ目は、正解率の非常に低い問題があり、設問の選定に改善の余地があるというもの。4つ目は各部署リスクマネジャーの働きかけが、結果に反映しているというものだ。

 「今回のテストによって、看護科全職員のリスク認知力が明らかになった。今後は目標値の設定を見直すとともに、インシデント・アクシデントの事例を見ながら、職員1人ひとりが具体的な対策を立案出来るような取り組みも導入し、リスク認知力をさらに高めるようにしていきたい」と、高野さんは話す。

 また、これまではBSCの取り組み状況を半年に1回見直しているだけだったが、今後は毎月、進捗状況を確認していく予定もあるという。

 戦略マップの目標に掲げている「アクシデントの重大さの低下」については、インシデント・アクシデントレポートの平均リスクスコアが1.73(04年度)となり、目標値である1.8以下をクリア出来た。だが、「アクシデント件数の減少」については、目標値を達成出来ていない。とはいえ、豊島病院がリスクマジメントにBSCを導入してから、職員の意識には確実に変化が表れている。高野さんによると、職員同士のコミュニケーションが活発になり、さまざまな改善策などのアイデアが出されるようになってきているという。

 看護科看護長(看護安全推進委員会のリーダー)の堤福子さんは、「これまでは漠然と効果があると思ってさまざまな対策に取り組んできたが、BSCによって目標が全て数値化され、その到達度が具体的にわかるようになった。手応えを感じる。目標と結果のギャップを把握することで、改善策にもつなげていける」と、話す。

 また、前出の加藤さんは、「戦略目標を実現するためのモノサシ、つまり重要業績評価指標を探すのは大変な作業だが、楽しい」と、いう。

 「看護や安全の質は定性的で、数値で表しにくいと考えられてきたが、BSCで質を数値化することによって、行動が具体化出来、職員のやりがいにもつながっている。すぐに効果が表れるわけではないが、リスクマネジメントをPDCA(Plan、Do、Check、Act)のサイクルで回すことによって、いずれは目標を達成出来るはず」と、高野さんはBSCの効果に期待をふくらませている。



バランスト・スコアカードが医療リスクマネジメントに果たす役割

 経営手法の1つであるバランスト・スコアカード(以下、BSC)を、医療のリスクマネジメントに活用する研究をしている国立保健医療科学院経営科学部の熊川寿郎さんに、医療リスクマネジメントへの導入のきっかけと、活用のポイントを聞いた。

Q.医療のリスクマネジメントにバランスト・スコアカード(以下、BSC)を導入されたきっかけを教えてください。

 リスクマネジメントの基本的な考えは、「リスクの把握」→「リスクの評価・分析」→「リスクの改善・対処」→「リスクの再評価」という4つのプロセスで構成される。だが、医療のリスクマネジメントの現状を見てみると、どうもそれらが機能していない。「リスクの把握」と「リスクの評価・分析」は行われていても、「リスクの改善・対処」や「リスクの再評価」は実施されていないことが多い。つまり、リスクマネジメントのPDCAサイクルが上手く回っていない。リスクをコントロールしようという、戦略的な思考も欠けている。だから、さまざまな評価・分析ツールを一生懸命学んでいるにもかかわらず、「手応えがない」「効果が上がらない」という声が多く聞かれる。

 こうした問題を解決しようと、戦略的マネジメントシステムとして注目されているBSCを看護部門のリスクマネジメントに導入しようと考えた。医療機関の中でも看護部門に焦点をあてたのは、インシデント・アクシデントレポートの8〜9割以上が提出されている部門だから。ここで成果が出ない限り、医療リスクマネジメントの有用性を語ることは出来ないと考えた。

 BSCは比較的新しい経営管理手法で、組織の目標と戦略を浸透させるのに大変役立つツールだ。92年に、ロバートS.キャプランとディビットP.ノートンが、ハーバード・ビジネス・レビュー誌に、将来の企業価値を「財務の視点」、「顧客の視点」、「内部プロセスの視点」、「学習と成長の視点」の4つの視点で測定する新しい業績評価指標としてBSCを紹介したのが始まりである。

 80年代後半以降、産業界は工業化社会から情報化社会への大転換期を迎えた。工業化社会では「有形資産」を測定することにより企業価値を計ることが出来たが、情報化社会では「無形資産」、すなわちブランドやデータベース、特許、技術力、効率的な業務プロセスなどを測定する方法が求められていた。つまり、従来は企業価値を財務指標で計ることが出来たが、それだけでは無形資産を持つ企業の経済的価値を正確に測定出来ないため、新しい指標が求められていたことが背景にある。

 当初は、無形資産も測定出来る新しい業績評価システムとして紹介されたBSCも、やがて企業が生き延びるための戦略的マネジメントシステムへと変化した。戦略的マネジメントシステムのBSCは、先に紹介した4つの視点で、組織のビジョンや戦略を全スタッフにわかりやすく浸透させ、組織が一丸となって目標に向かっていくための仕組みである。

Q.戦略的マネジメントシステムとしてのBSCを医療のリスクマネジメントに導入する際のポイントがあれば、教えてください。

 まずは、組織のミッションやビジョン、戦略を明確にすること。つまり、本気でアクシデントの頻度と重大さを減らしたいと考えているかどうかがポイントだ。それが明確であれば、因果関係のある戦略を戦略マップに落とし、必要な目標への展開、重要業績評価指標、目標値の設定、実施項目の決定など一連の過程を、スコアカードで表現出来るようになる。

 今日の医療リスクマネジメントの問題点である「リスクの改善・対処」、「リスクの再評価」のプロセスは、重要業績評価指標の目標値と実際の活動結果を比較し、ギャップがあれば、その原因を認識し、次の改善策につなげていくことで実際に動かすことが可能になる。こうして医療リスクマネジメントのPDCAサイクルを確実に回すことができる。

 全く同じ作業プロセスを繰り返すサービスであれば、リスクを限りなくゼロに近づけることは可能かもしれない。だが、医療現場では、新たな技術が絶えず導入され、異なった問題を抱える患者の入退院が繰り返されるなど、スタッフは常に新しい状況に直面している。このことは、他の産業界との大きな違いである。

 とはいえ、マンパワーなどの資源を無尽蔵に投入出来るわけではないので、こうした領域では、誰もが納得出来るレベルにまでリスクをコントロールすることが現実的な目標となる。その目標に到達するための戦略的マネジメントシステムとして、BSCは有効だと考えている。

 リスクマネジャーや担当者が変わっても、その組織のリスクマネジメントの成果は保障されるようなシステムを構築することが重要だ。都立豊島病院さんとの共同研究を続けながら、いずれ近いうちに実証研究の具体的な成果を紹介したい。


図表1 都立豊島病院の事例ドリル(一部抜粋)


図表2 都立豊島病院のインシデント・アクシデントレポートの重大さの分類


図表3 看護科リスクマネジメントの戦略マップ


出典:「バランスト・スコアカード(BSC)を活用した医療リスクマネジメントシステムの構築」、
熊川寿郎・他著、第2回リスクマネジメント論文コンクールDREAM AWARD 2005
http://www.dream-lab.co.jp/award2005/pdf/kumakawa.pdf


図表4 看護科リスクマネジメントのフォーマット(スコアカード)

出典:「バランスト・スコアカード(BSC)を活用した医療リスクマネジメントシステムの構築」、
熊川寿郎・他著、第2回リスクマネジメント論文コンクールDREAM AWARD 2005
http://www.dream-lab.co.jp/award2005/pdf/kumakawa.pdf




上段左から、教育研修看護長の鈴木まさ代さん、
看護長(看護安全推進委員会サブリーダー)の加藤美保さん、
看護長(看護安全推進委員会リーダー)の堤福子さん、
専任リスクマネジャーの金沢千恵子さん。
下段左から、看護担当科長の馬渡法子さん、
看護科長(看護安全推進委員会委員長)の高野優子さん、
看護担当科長の堀口京子さん。

他に、BSCを活用したリスクマネジメントの推進者に、
菊池美佐子さん(現)東京都立府中病院看護部看護科看護部長、
古田愛子さん(現)東京都立府中病院看護部看護科担当科長、
佐野廣子さん(現)東京都立松沢病院看護部看護科担当科長、
秋野たみ子さん(現)東京都立駒込病院看護部看護科担当科長、
神田律子さん(前)東京都立豊島病院看護科看護科長、
国立保健医療科学院経営科学部主任研究官の熊川寿郎さんがいる。


国立保健医療科学院経営科学部の主任研究官である熊川寿郎さん。