第13回:「リスクマネジメントと看護記録」 |
||
| 聖路加看護大学 教授 岩井郁子先生 医療過誤裁判では、全ての診療記録が証拠保全の対象となる。診療記録の一部として位置付けられている看護記録も、その対象となる重要なものだ。 そこで、看護記録の書き方について、医療の現場ではどのように教育されているのかお聞きした。しかし、お話を聞くうちに、看護記録は書き方(How to write)ではなく、専門家として意図的に観察する能力や適切な実践力と質が問われているという現状が見えてきた。 今回のスペシャリストは聖路加看護大学の岩井郁子教授。看護記録の現状と課題について、特にリスクマネジメントの観点から教えていただいた。 |
||
![]() |
||
| |
||
I 教育体系の問題 (概念・定義が明確でない) 看護学生に「看護記録」というタイトルでコマ数を設けて教育しているところはほとんどないと思います。市販の参考書を見ても「看護記録」という項目は少ないです。テキストや資料を見ても、そもそも看護記録とは何かという概念を明らかにしているものがありません。定義や概念とは目的・内容を定めるものです。その土台となる根本的な部分がおさえられていないのです。看護記録をどのように構造化して、何処まで教えるべきなのかが整理されていません。なぜ看護記録を書くのかと問われた時に明確に答えられる教育者がいない、教育者で看護記録を価値付ける人が少ないのです。 (実習ノート≠看護記録) 1980年代ごろから、日本では看護過程が強調され、講義や実習も看護過程を重視した内容になってきました。看護過程は、問題解決を中心とした思考過程で、記録システムは開発されていません。看護学生は、実習の中で看護過程を中心に「実習ノート」を書きますが、これはある特定の実習目標を達成する手段として書かせるもので、その中には個人的な見解や思考が含まれています。しかし、思考イコール記録ではありません。実習中の「実習ノート」の記録と、臨床の場での「看護記録」が混同して教育されているのです。 (書き方ではなく臨床の実践能力) 看護記録の書き方にある程度のルールはありますが、ではルールが分かれば書けるかというとそういうものではありません。例えば痛みの性質についても、どこが、どのように、どう痛いか、というように問題解決の上で重要な兆候を書くためには、どうしても専門的な知識が必要です。診たこと、実践した結果、反応を意味ある記録にするには、書き方ではなく、臨床の実践能力が問われるのです。それをどのような書き方をするのかというのは訓練です。 しかし、なぜこう書かなくてはいけないのかという本質的なところの教育が、基礎教育においても卒後教育においても明確にされていません。 看護記録を記載することは、業務上の責務を果たしたことを日々の記録で証明することにつながります。私がどう思う、こう思うではなく、行ったことを何らかの形で証明しておかなければなりません。 こうした看護記録を系統的に教育出来る教育者を育てることも必要だと思われます。 II 裁判との関わりから見る看護記録 (告訴のきっかけになった看護記録) ある告訴の証拠として用いられた「看護記録」には看護師の個人的なジレンマ、問題に関して、家族に真実を告げていないことへの心の葛藤が記載してありました。これが一つの証拠とされていたという事実があるのです。看護記録は、事実を記載するものであって、主観を記載するものではありません。 (看護記録には専門的な知識が問われる) インターネット(http://www4.ocn.ne.jp/~bbc135kj/new_page_4.htm)で公開されている医療過誤訴訟の記録があります。母親を失った原告が、裁判に使われた証拠資料として、約3週間にわたる「看護記録」を公開しているものです。訴訟経過を公開する文脈の中で、看護記録の内容を「このように呼吸状態が悪かったのではないですか?それなのにこういうことをしたのですか?」というように使っています。これをみると「看護記録」にはいかに専門的な知識が問われているか、専門家としての目が問われているかがわかります。 (予見だらけの看護記録の問題) 裁判で問われるのは1)過誤問題となった事実は予見できたか、2)予見に基づき回避できたか、3)因果関係があるか、という3点です。 ところが、看護記録には予見が多く記載されすぎています。私達の責任範囲を超えたことを「こう書けばいいのね」という感じで書いています。「腰椎麻酔による副作用の可能性」「手術に関連したショックの可能性」と書いても、私達はそれを回避できません。責任を取れないことまで書いています。予見とは回避の責任を意味します。予見できたら回避する、だから丁寧に診察する、医師に確認した、というようにつながればいいのですが、予見を書きっぱなしのことが多いのです。感想文的になっていて、何をやったのかということが書かれていません。 実際にあった、不適切だと思われる記載例(SOAP記載のアセスメント〈査定・評価〉の部分)を挙げてみます。(不適切な部分に下線)
このように「思う」「可能性」など個人的な見解の記載は「看護記録」として不適切です。予見の記載に関しては、予見したことだけではなく、その結果どうなったのか、回避義務を実行した事実、さらに安全を確認した事実を記載すべきです。 III 今後の課題 (患者による病気の理解と自己責任) 私は、専門家は専門用語を使うべきだと思っています。正しい言葉(日本語でも英語でも)が書いてあれば、意味を調べることが出来ます。漢字で書くと時間がかかるというのが実感です。疼痛と書くよりPainと書くほうが早い。全身清拭よりB.B.(Bed Bathの略)と書いた方がいい。非インシュリン依存性糖尿病と書かなくても「NIDDM」と書いてあれば辞書で調べることが出来ます。公認の略語には略語集があります。何でも教えることではないと思います。患者主体の医療とは、そういうことです。調べることを通して自分の病気は何か学んでいくのです。これからはそういう時代になっていくのだと思います。診療情報の提供・開示は、患者が「自分の病気および治療を理解するため」なのです。診療記録の一部である看護記録も同じことです。 情報を提供するということは、お任せ医療ではなく、共に問題解決に取り組みましょうということを意味します。患者が積極的に治療に参加することを促すために情報を提供するのです。患者の権利ばかりが主張されていますが、インフォームド・コンセントには自己責任が伴います。権利でもあるが、自己責任でもある。医師と患者の関係も、パターナリズムからの脱却、対等、共に、というようにパラダイムが変わってきました。 日本の医療の今後の課題は、患者の自己責任を明確にしていくことではないでしょうか。 (経営側のリスクマネジメント) 2002年10月に日本医師会の出した「診療情報の提供に関する指針(第2版)」では、「遺族に対する診療情報の提供」も明記されました。診療情報の提供・開示から生じる誤解を未然に防ぐことはますます重要になってきています。 記録というのは記載者個人に責任をとらせるものです。そのためには基準がなくてはなりません。医療機関を経営する側は、記載をする従事者に基準マニュアルを配布し、徹底させることも重要になります。「この病院に就職したあなたの責務はこのように書くことなのです」と。リスクマネジメントには病院の損失を最小限にすることも含まれますから。 聖路加国際病院では看護学生にも医療チームの一員として看護記録に記載させています。しかし、今は手書きですが、電子カルテになるとまたいろいろな問題が出てきます。セキュリティ、アクセスの問題。医療の担い手をとしての学生(看護学生、医学生も含めて)をどう捉えるのか。第三者という立場におくのか、どういう対応にするのか、考えていかなければなりません。 IV まとめ まず、看護記録とは何かという土台となる部分を共通概念として統一させることが重要です。それを考慮せずにハウツーに走っていることが課題です。 私が考える「これからの看護記録のアウトライン」は次の図のように、診療記録という家の一部屋に看護記録があるというイメージです。 |
||
![]() |
||
| また、記録には必要なことは書くけれど、必要ないことは書かない。根拠のない予見は書く必要がありません。 そして、記録は事実を書いていれば何も恐れることはありません。しかし、記録は業務の適切性を証明するものですから、記載不備はどんなことがあっても不利です。私達は責任ある行為をとったという事実を誠実に証明していくことです。「医療職を守るのも記録、その逆もまた記録」なのですから。 |
||
|
|
||
今回は看護記録のみを取り上げたが、最後のまとめで指摘されたように、看護記録は診療記録全体の中の一つであり、また、診療記録全体の整合性が取れていることが非常に重要であることがわかった。この点からも、医師と看護師の密接な連携が一層求められていることが改めて認識された。 |

