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第23回:「インフォームド・コンセントの現状と課題」



北里大学 客員教授 唄孝一氏
     
    
 今回のスペシャリストは医事法学の第一人者である唄孝一氏。40年にわたる業績により、昨年は文化功労者に選ばれた。その顕彰式の際に、日本のインフォームド・コンセントの現状について「軽薄だ」とコメントしている。日本にインフォームド・コンセントを紹介したのは氏である。その本人からみて、一体、何が軽薄なのか。紹介当時の思いから、現在の問題点、そして今後の課題について語っていただいた。(取材日:2004年1月14日)




I 紹介当時を振り返って

 よく考えていると、私も初めはインフォームド・コンセントの必要性が理解できませんでした。患者と医者とが診療の契約をして特別な関係になっているのだから、なぜ1つひとつの行為にまた承諾が要るのかと。しかし、少しずつわかってきました。なぜなら、患者のいわゆる自己決定とは、自分のことを自分で決めるというだけではないということ。有機的な存在としての人間の肉体にいやしくもメスを入れる以上は、仮にそれが良い目的であり正しい方法であったとしても、その肉体の持ち主の承諾がないとそれは合法じゃないということ。そこには心身一体の人間というものの実在、実存を大事にするということで、その底には独特の人権の考え方があることがわかってきたからです。
 
 日本には従来そういう人権の捉え方があまりありませんでした。当時(昭和40年代頃)まで残っていた、治療や手術の際の承諾書というと、治療費や入院料を取り損なわないようにサインさせておくという意味がひとつ。もうひとつには、どんなことが起こっても医者は責任をとりませんということをあらかじめ患者にわからせておく意味がありました。「いかなることが生じても一切責任を負うまじく候」というような言葉が書いてありました。これは、どんな過失を犯しても、医療過誤があっても、医者は責任を取らないということです。これは、人権に基づく承諾とは全く別物です。人権に基づく承諾は、ある治療行為を「する」ということを承諾するのであって、過失があろうがなかろうがその承諾が要る。しかし、当時の承諾書は、医師が過失をしても責任を取らないというのですから、まるで精神が違います。志向が反対ですね。

 このような状況があって、新しい人権の捉え方を日本にとり入れなければいけない、とり入れるといういい方は適当でないかもしれないが、少なくともそれに接して理解をする必要があると思ったのです。ただ、そのことが当時の日本の状態に適しているかどうかについては、自信がなかったので、最初に書いた論文(1965「治療行為における患者の承諾と医師の説明」)では、日本にとり入れましょうというようなことは一切言っていません。あくまでもドイツの話として書きました。そのまま日本に持ってくると、もちろんプラスもあるでしょうが、マイナスがあるのではないかと危惧したからです。矛盾するようですが、制度としてただちにとり入れるかどうかは留保したまま、日本にとっての新しい人権の考え方としてはとり入れたいと思ったのです。
 私は、インフォームド・コンセントについて口火を切ったかもしれませんが、日本でどうしたらよいか、心は決まっていませんでした。他方、世間でもピンとこなかったのか、私がそれを発表した時もそれほど話題になったわけではありません。それがだんだんと広まってきたという感じです。


II 現在の問題点

(説明と承諾)

 その頃の思いとはちがって、現在は、ある意味では当然のようにインフォームド・コンセンは受け入れられています。しかし、根本思想がどこまで理解されているかは疑問です。

 インフォームド・コンセントは「説明」と「承諾」を二大要素としていますが、説明の必要性より前に、承諾の重要性の認識から始めるべきだと思います。
承諾を意味あるものにするためには、「何を承諾するか」を知っていなければなりません。そのために医者の説明が必要です。説明より先にまず承諾ということがあるのです。しかし実際には、承諾はあまり重視されないで医者の説明の方はかなり普及したのでないでしょうか。
 説明の必要性が普及したこと自体は大変結構なことです。これまで日本の医療の現場では医者から患者への説明があまりありませんでしたし、医者と患者のコミュニケーションは十分ではありませんでした。だから説明の必要性には皆すぐ気がついたのです。インフォームド・コンセントというと、説明のこと、説明をちゃんとやればいいんだと思われています。

 「インフォームド・コンセントをとっています」と言えば、まるで魔法の小槌のようにそれで万事OKになるという言い方が最近耳に付くような気がしませんか。つまり、インフォームド・コンセントが何故重要なのかを理解していないということです。本気でやろうと思ったらそれはかなり難しいことなのに、難しいということ自体すら考えずに、ただ口先だけで言っている傾向があります。そのことを「軽薄」と言ったのです。

(医療についての自己決定の特殊性)
 自己決定にはいろいろなものがあります。山へ行って危険な地域に入るかどうか、どういうライフスタイルをとるか等、日常の様々な場面にその思想は表れます。そうした私事一般についての自己決定も医療についての自己決定も、根は同じ「自由」の思想です。
 医療における自己決定が他と大きく異なる特徴は(1)先程述べた心身一体の人権のこと(2)プロフェッションとの関係、この二つです。

(1)physical integrity
 心と身体が一体になった人間を考えて、アメリカでは「フィジカル・インテグリティ(physical integrity)」とよく言われます。integrityを日本語にするのは難しいですが、統合性とでも言いましょうか。そういう考え方が入っているのが医療における自己決定のひとつの特徴です。

(2)プロフェッション(profession)との関係
 医療者側で、プロフェッションとして持つべき責任として次の3つのことにふれたいと思います。

●医療行為の責任

 一方はプロフェッション、もう一方は患者という、取り替えることができない二つの当事者があって、違う立場にあるということを認識して下さい。患者に承諾権を与えると、医者の負うべき責任が曖昧になって、患者が半分責任を負わなければいけないと勘違いする向きがありますが、そうではありません。医療行為の責任はあくまでも医療者側にあります。決して患者に移るわけではないのです。ここのところが根本で、第一に大事なことです。

●選択肢に優先順位をつけて示す責任
 第二にもう少し具体的なことに入ります。
例えば、癌を治すのに仮に化学療法と放射線療法と外科手術があるとします。その場合に患者の方からどれにするかを言い出すべきだという意見があります。患者の権利を強く主張する人たちは、患者の希望する治療をするのがインフォームド・コンセントだという言い方をします。しかしそれは違うと私は思います。
 3つの療法があるとしたら、医師はプロフェッションとして、患者毎にどの療法が適していてどういう順序になるか、選択肢に優劣をつけて横並びでなく縦並びで患者に示し、ひとつずつ患者にイエス・ノーを聞いていくべきです。第一順位を患者が拒否したら第二順位、第二順位を拒否したら第三順位というふうに移っていくべきです。オーターナティブ(alternative)は示さなくてはなりませんが、プロフェッションの責任で優劣を示す。患者の方がイニシャチブをとって、3つのうちいきなり1つを選べというのではなくて、医者が患者毎に選択肢を順番に説明して、患者は「それは困る」とか「それを選ぶ」とかという形で決めていくべきなのです。
 こんな公式的なことを現場でその通りやれないかもしれませんが、プロフェッションの立場と患者の立場との区別がわかるように、敢えて公式的に述べました。

●医療機器の取り外しに関する責任
 第三に、実際に医療機器を外したり外さなかったりという行為は、患者が手を下すべきことではありません。意思決定は患者がするけれども、それに基づいて取り外すのはあくまで医療者側の責任領域の問題です。それに患者や家族が手をつけるというのはおかしい話です。

 以上三つのことから、プロフェッションというものとインフォームド・コンセントとの関係をお分りいただきたいと思います。
しかし、最近では患者の権利を強く言いたいがために、プロフェッションの責任を軽く見る傾向があります。また、プロフェッション側にもそういう誤解があります。

(プロセスとして捉えるべきインフォームド・コンセント)
 大手術の際に「インフォームド・コンセントをとりましたか」と聞かれて、「この通りとってあります」と医者が言い、その際に録音したやりとりをテープレコーダーで聞かせていることがあります。それはそれでいいのですが、インフォームド・コンセントは必ずしもそういう1回の瞬間的な説明で終わるものではありません。医者と患者がお互いに接触しながら、極端に言えばお互いの医療に対する考え方とか病気に対する考え方、生命に対する考え方などの価値観をわかり合うというプロセスがあってこそ、本当のインフォームド・コンセントになります。テープに録音しているからここで話します、と形式的に終わるものではありません。救急のような場合は例外ですが、基本的にはプロセスとして捉えるべきです。インフォームド・コンセントが瞬間的な位置付けに終わってしまうのでは困ります。

 プロセスを経ていくと、医者の権利と患者の権利の対抗という面が出てきます。これはお互いに相補って共同で医療をするという関係を作るためのもので、喧嘩とは違います。そういう気持ちを医者の方でも持ち、患者の方も自覚しなければなりません。
 よく、医者と患者は、正対して手を伸ばしあってお互いに手が触れるぐらいの距離が良い関係だと言われます。そのぐらいの距離を保ちながら、お互いの権利も主張する。その1つとして説明がある、ということです。

(one of one と one of them)
 インフォームド・コンセントの実践により、医者と患者が向き合うという効果はあると思います。ただ、現実にはまだまだだというのが実感です。診療が流れ作業みたいになっている気がします。医者は一人の患者に向かっているときはその人だけに向かっていて欲しい(one of one)のですが、入ってきたらすぐ出て行ってもらうことだけを考えているような受診風景がまだ少くなさそうですね。
 もちろん、患者側も、自分ひとりじゃないということを配慮することが必要です。現実には、医者にとって患者はたくさんの患者の中の一人(one of them)に違いないのですから。患者が自分の病気や身体のことに集中してしまうのは無理ないことですが、心のどこかに他の患者との連帯の考えを秘めているべきです。

(様々な場におけるインフォームド・コンセント)
 ひとくちにインフォームド・コンセントと言っても、治療行為、治験(研究)、臓器提供など、類は同じでも種は異なります。説明の範囲も随分違ってきます。
 例えば、治療については、患者の身体がどういう状態にあり、どういう治療をしたらどうなるかという話だから、何を説明すべきか特定しやすい。
 しかし、治験の研究内容を被験者に説明しても必ずしも意味がありません。研究は別の世界の話になってしまいます。それについて承諾を取るとなると、研究というかなり抽象的なことをよくわかってもらう必要が出てきます。説明は非常に難しいです。
 また、臓器提供の場合には、自己決定だからという以上に、かなり強いボランティア精神が必要となります。治療のために自分のおなかを開けるというのと異なり、提供はほとんど本人には直接の利益はなく利他的です。ただ、研究よりは提供の方が、何を説明すべきか、わかりやすいかもしれませんね。
 とにかくそれぞれ区別してその行為に必要なことを考えるべき問題をはらんでいますね。


III 今後の課題

(代諾の問題)
 今後は、インフォームド・コンセントをもう一度初めから勉強しなおしたいと思っています。具体的には代諾(十分な同意能力のない人の代わりに承諾すること)の問題。そこにインフォームド・コンセントの矛盾のようなものが一番出ていますから。
 自己決定というものを非常に厳しく考えれば考えるほど、論理的には自己決定できない人の層が増えることになります。これはインフォームド・コンセントの難しい問題のひとつです。インフォームド・コンセントを完全に貫こうと思ったら、治療行為の承諾という自分の肉体に関する自己決定を、他人が代わって行うということはありえないはずです。近頃の文部科学省や厚生労働省から出るガイドラインなどを見ると、「代諾」という言葉がよく出てきますが、代諾というものは最小限度にすべきだと思っています。
 ただし、救急の場など、例外は認めるべきです。緊急事態には家族の代諾でできるといっても良い場合があるでしょうし、ときによりインフォームド・コンセントを省くというように考えても良い場合もあるでしょう。命を救うために何か医療行為を行わなければならないということがはっきりしている場合は、代諾についても考えやすいのです。
 しかし、治験のようなものは代諾で行わない方がいい。代諾を使わないと出来ないような人は、その人を使わないですむなら、治験に参加させない方がいいと思います。それを割合平気で代諾させようとする傾向があるとしたら、かなり根本的に疑問を投げるべきです。
 例えば、倫理審査委員会で代わって決めようという話があります。誰かの承諾がいるとなると、当然そういう発想が出てくると思います。それをインフォームド・コンセントの延長としてみるか、インフォームド・コンセントとは別の制度と見るか。そのあたりの問題をもう少しはっきりさせるべく論理的整理が必要かもしれません。
 我々法律家の勉強不足をもう少し何とかしなくてはならないと思っています。

(法律家と医者の関係)
 法律学は変わった学問かもしれませんが、入りこむと面白い学問でもあります。法律を恐れすぎないことです。アメリカなどでは、哲学者や医者が平気で判例のことを書いていますが、あれでいいと思います。日本でも、もっとお医者さんが平気で書いてはいかがでしょうか。逆に、恐れすぎないで生半可な知識で書いていて、多少ピントが外れているものもあるにはあります。そういうものを見ると、こちらから何か申し上げるべきかと感じます。しかし、それをやると「法律家が威張っている」という風にとられないかと思い、ついやめてしまいます。私たちのほうでも、きっと間違っていることがあるでしょうに。もっと率直に言い合えて、お医者さんも法や判例について平気で、しかし慎重に書くというようにならないかと思っています。いろいろな医学の学会に行くと、私はいつもそう言っているのですが、この気持ちが伝わりにくくて、現実はなかなか難しいようですが。



 医者と患者の関係のように、医者と法律家もお互いに率直に言い合える関係が望ましい。間違いがあれば指摘しあう。権利も主張し、お互いに補う「対抗」関係を創り上げていくことですね。
 言葉としてはかなり普及した感のあるインフォームド・コンセントも、代諾の問題など今後の課題は多い。医療従事者と法律家が対抗しながら、ひとつづつ課題に取り組んでいくべきでないでしょうか。