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第19回:「医者と患者の壁」

北里大学教授 養老 孟司氏

今回のスペシャリストは、北里大学教授の養老孟司氏。今年の大ベストセラー「バカの壁」の著者の目に最近の医療をとりまく問題はどう映るのか。自らのインターン時代の体験談、真のリーダーとは、そして医者と患者の前に立ちはだかる壁についてお話いただきました。(取材日:2003年9月25日)

養老 孟司氏

I インターン時代の体験

医療過誤の問題は非常に難しい。このことは、インターンの時(当時昭和37年)に気がついていた。

(血液型の書き間違え)

実は輸血の問題でひっかかったことがある。具体的に言うと、若い女性の患者さんが本態性高血圧ということで、東大病院の内科に手術のために入院してきた時のこと。最終的には血管造影をやって腎動脈狭窄という診断がついた。腎臓の動脈の一部が細くなって血流が下がると、当然のことながら血圧を上げようとする。当時はその血管を取るという手術でした。

今でも覚えているのは、上の先生に「あんたが担当だから、血液型だけは自分で調べろよ」と言われたことです。早速病室に戻って患者のカルテを見た。すると、厚いカルテの1頁目に血液型の判定結果がでている。A型、と。しかも血液型の判定に使った液を吸い取った濾紙が貼ってあるんですよ。血液の判定は黄色い液が固まればA型、青い液が固まればB型、両方が固まればAB型、どちらも固まらなければO型、となります。血液が固まりになっているから、濾紙に吸い取られた状態で見えるんですよ。それまで貼ってあるから、もう僕はこの患者さんはA型でいいんだと思った。しかもこれを書いているのは、内科の医師、つまり僕の先輩ですよ。こっちはペーペーのインターンだし。信用するに決まっている。

それが翌日大目玉をくらった。手術室で輸血する前に、看護婦がクロスマッチするでしょ。輸血用の血液と患者の血液を混ぜる。そうしたら固まっちゃった。

病室へ帰ってもう一度カルテを見た。当然のことながら、濾紙の判定結果は正しいんですよ。が、何と内科の医師が書き間違えていたのです。B型と出た濾紙を貼って「A型」と書いていたのですよ。濾紙の片方が固まっている場合、A型かB型のどちらかしかないんだから、間違える確率は二分の一です。目の前で起こっていることだってそういう風に間違えるのものなんですよ、人間なんて。

それがわかった瞬間に真っ青になった。一体俺は誰を信用したらいいのかと。だって、先輩の医者をそういうところで疑うなんて失礼な話でしょ。患者さんの命に別状がなかったことが幸いでしたが。

(血管の内と外の間違え)

もう一つ体験談。上顎癌患者の手術を手伝った時のこと。当時は顔半分をとるというひどい手術をやったんですよ。上顎洞を取ると眼球を支える床がなくなるから眼球が落ちる。だから眼球を摘出するしかない。そして外側は頬がなくなる。つまり顔半分が穴になってしまう。そういう大手術のためにお年寄りの方が東大病院耳鼻科の外来に来た。

朝の8時から3時半までにわたる大手術の手伝いをし、その間飲まず食わず、トイレにもいかず。その日はくたくたになって帰りました。

翌日病院へ行くと、患者さんのベッドの横に教授以下が全員立っている。何と患者さんの意識がなくなっていた。何故だ、手術はちゃんとやったのに。すると、病理の奴がピンセットで「あ、これだこれだ」とつまんで終わり。これとは血管だった。

骨の手術というのは大量に出血するから、出血を少なくするためにいちいち血管を縛るんですよ。この手術でも二本に分かれている頚動脈のうち、首の方から一つの頚動脈を取り出して縛ってあったのです。頚動脈には顔の方に行く外頚動脈と、脳に行く内頚動脈の二つがあるのですが、この手術では顔の方には血液が行かなくても困らないとして、外頚動脈を縛った。すると出血が少なくてすむから。

病理の奴がこれだ、と言ってつまんだのは頚動脈。縛ってあったのは内頚動脈の方だったのです。これは単純な間違いです。最初の手技が既に間違っていたのですから。実は頚動脈を外に出すときは、首のところでねじるので内と外の位置が変わりやすいのです。だからよくよく確認しなきゃいけなかったのに、とにかく手術が大変でしょう。手術のことを一生懸命考えていると、手術前のこういうことまで気が回らない。後から思えば、手術が終わってから縛ったものを外しておけばよかったのですが、その時は出血をおさえる為に良かれと思って縛ったままにしておいた。しかし、最初から縛るべき血管が間違っていた。しかも、悪いことに患者さんがお年寄りで動脈硬化を起こしていたから融通がきかなかった。今だったら典型的な医療過誤。

こういう体験をすると、一体臨床で患者さんを診た時に、僕が主治医だったらどこまで責任をとったらいいのか。そういうことが突然目の前に浮かんできたのです。

II 真のリーダーの必要性

(敗戦によるリーダー不在の問題)

そこで、戦後の社会問題、つまり敗戦によるリーダー不在の問題にぶつかる。

最近サラリーマンの雑誌がよく「指導者」「リーダー」と書いている。では指導者とは何か。その人が決定したことは取り返しがつかない、というのが指導者なのですよ。小泉首相がイラクに兵隊を出すと言ったら、その兵隊が死ぬのは小泉の責任、判断ですよ。兵隊が死ぬからやめようというのも一つの考え。ここはやむを得ないから送るというのも一つの考え。誰かが決めざるを得ない。リーダーというのはそれを背負う人なんですよ。つまり、自分がいかに医療過誤を犯そうが、ともかく患者の面倒をみて責任を取るのは俺しかいない、という気持ちがないと出来ない。それをリーダーと言うんですよ。患者の命を奪うことは十分ありうる。うちの母は開業医をやっていたけれど「100人殺さなきゃまともな医者になれない」と言っていた。それは聞きようによってはものすごく無責任だけど、ある意味では正しいんですよ。なぜなら、誰かが決めなきゃいけなくて、その決めなきゃいけない立場にたたされることは人間には十分にありうるから。

だけど、戦後の社会を見て下さい。ジャーナリズムが報道してきたことはほとんどが被害者の気持ちですよ。じゃあリーダーの気持ちはどうか。日本で一番典型的に言われる人は乃木大将でしょう。彼は一体、二百三高地で何人の兵隊を殺したのか。自分の息子2人も含めて。その人の気持ちはどうかということは一切触れずにきたでしょう。また、東条英機はけしからんということは言ってきたけど、東条に「自分の命令で死んだ人にどういう気持ちでいたんですか」と聞いた人は一人もいない。

(リーダー教育の欠如)

患者1人1人か集団かの違いはあるけれど、あることのために犠牲者が出ると言う点では、医者も実はそれと同じでしょう。だから医学の進歩がある。だけど、そんな気持ち今の人にはわからないでしょう。

僕は、インターンの27歳の時、その歳になって病院に行って患者さんを直に扱った瞬間にそのことに気が付いた。逆に言うと、それまで一切教わっていないということ。東大医学部のエリート教育なんて全くウソですよ。逆でしょう。エリートっていうのは、お前さんがやったら患者さんが死ぬんだということを叩き込むことなのですから。そこで学生は悩まなければいけないのですよ。

戦後の日本というのはそれを一切教えないできた。外してきたんですよ。その理由?大事なことは全部アメリカが言う通りにやってきたからですよ。そこでリーダーつまりエリートが育つはずがないでしょう。エリートというのは何もいい待遇を受けるとか、金が儲かるとか、そういうことではないですよ。他の人の運命を引き受ける。その結果何が起ころうと自分の気持ちは治めなきゃならないという人。しかも大きな害と小さな害を比べたら、小さな害の方を選ばなきゃいけないという人。場合によっては黙って人殺しをしなきゃならないかもしれない。そういう人なんですよ。

新聞や雑誌の記事を書いてる人が、そういうことをわかって書いていると思いますか?

III 医者と患者の壁

(医者はリーダーとしてもっと発言せよ)

医者の側だって言ってみれば安易に医者になっている。東大医学部だったら、これだけ成績が良ければ医者になれると思っている。両親が授業料払うだけの経済的余裕があるから医者になる人もいる。それで医者になられたらたまらないよ。利口だとかバカだとか極端に言えば関係ない。正しい判断をできるかどうかです。自分が判断して犠牲者が出るのはある意味で当然なんですよ、この世界は。あの先生が言った事は間違いないですと言っても、結果が間違いだったらそれじゃすまない。血液型の問題と同じですよ。じゃあ間違うことがあるか、といったら、人間だからありますよ、それは。それを全部背負っていくのがエリートでしょ。

僕の医学部の同級生で病院の院長クラスの人は、もうそろそろ、あと数ヶ月、半年位で定年を迎える。その人たちが、昨年のクラス会で何て言ったと思いますか。ほとんどの人が「定年まで事故が起こらなければいいなと毎日祈ってます」と言うんですよ。今頃そんなことを言うなら医者にならなければよかったのに、と思いますよ。だって逆でしょう。事故があって当たり前と思わなきゃいけないんですよ、本当のエリートは。そういうことが起こった時こそ院長の出番だと思ってなきゃいけない。だからリーダーがリーダーじゃないんですよ。

それから医師はリーダーとしてもっと発言すべきです。医師会は経団連に加入しろと言いたくなる。だって診療報酬のことしか言わないでしょう。脳死とか安楽死とか、職能団体として当然言うべきことをあまり言ってないでしょう。医師自身がどう思っているか、もっときちんと発言すればよいのです。

(患者には医者の立場を理解して欲しい)

僕が医者をやったら医療事故続発だよ、と思う。同じように患者さんが考えてくれればいいんですよ。それが人の立場でものを考えるということでしょう。医療過誤とかうるさいことを言わずに、「医者をやれ」と言うんだよ。やったらすぐにわかるでしょ。一体何を信用したらいいのかという所から始まって、間違ったらどうするかと心配したら夜も眠れなくなってしまう。

エリートっていうのはその立場にたってくれる人が少ないんですよ。大抵の人は庶民なんだから。庶民の立場にたつのは易しいんです。だれが東条の気持ちになれるか。

ほとんどの人はその気持ちがわからない。みんな私は被害者だと主張する。

僕は、これは臨床なんかできない、何人殺すかわからない、と思ったから解剖の世界へ進んだ。他の同級生が臨床にいくとき「あいつらよく平気でなれるよ」とも思った。だけど、そういう風に誰かに医者になってもらわなきゃ。僕みたいな連中だけだったら誰も医者にならないもの。

患者は経験年数が長い医師にかかりたがる。誰も初めての患者になりたがらない。でもどんな医者だってはじめての手術というのがある。

大学病院の医者の平均寿命をみたら、他の職業より短いというデータがありますよ。自分の面倒をみてるヒマがない、かわいそうですよ。

(大切なのは患者と医者の信頼関係)

事故を少なくするために一番いいのはニアミスをオープンにすることですよ。これだけニアミスがあるのだから。だから僕も体験した血液型の問題を話したんですよ。

でも実際はニアミスすらオープンにしてないでしょ。何故かと言うと、医療には難しい問題があって、信頼感に関わってくるから。そんな危ないことをやっているのか、という話になるから。信頼感に欠けるということは患者の精神状態にとって良くない。この先生にやってもらって本当に大丈夫かな、と思っていること自体が病気に良くないでしょ。"いわしの頭も信心から"ですよ。いつ間違えるかわからないと思っていたら、患者の方もおちおち眠れないという話になる。

医者が患者を信頼して、患者が医者を信頼する関係があれば、スムーズに行くんですよ、そこから先は。

結局は信用するしかない。それは大学紛争を体験しているからよく知ってます。学生と教授がお互いに信用しないとどんなひどいことになるか。その結果誰が得したか。不信感からは何も産まれませんよ。社会のコストが増えるだけです。

古い考え方かもしれないが、世の中あとになればなるほど悪くなる。近代化は決していいことだと思っていません。医療訴訟なんてやたらコストがかかってしょうがない。今、法科大学院を増やしていますが、それだってコストがかかるだけです。非常に保守的にみえるかもしれないけれど、やはり「医者にお任せします」というのがいいと思ってます。信頼関係が一番大事なんですよ。

養老節いかがでしたでしょうか。異論・反論・ご意見を「Medsafe掲示板」へ投稿していただければと思います。

「バカの壁」の最後には「崖登りは苦しいけれど、一歩上がれば視界がそれだけ開ける」とあります。自分と違う立場のことを理解しようとすること、人の気持ちを分かろうとすることによって壁の向こう側にあるものが見ることができるはずです。医者も患者ももっとお互いの立場や気持ちを理解しようとすることで、一歩上の信頼関係を築くことができるのかもしれません。

(略歴)

昭和37年
東京大学医学部卒業一年のインターンを経て、解剖学教室に入る
以後解剖学を専攻
昭和42年
医学博士号修得
昭和56年
東京大学医学部教授
平成7年
退官
平成8年
北里大学教授(大学院医療人間科学)
平成10年
東京大学名誉教授
養老孟司(Takeshi Yourou)
養老孟司(Takeshi Yourou)
バカの壁

バカの壁

出版社:
新潮社
新潮新書
発行:
2003年 04月 出版
発行形態:
新書
ISBN :
4106100037
定価:
\680(税別)
カテゴリ: 2003年10月10日
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