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第5回:「航空会社におけるCRM訓練」

株式会社日本エアシステム CRM推進グループ 福井邦彦氏

福井邦彦氏

航空業界は危機管理に対する研究が長年にわたって行われており、その内容も進んでいる。最近では航空業界から始まった「CRM」という訓練方法が、医療におけるリスクマネジメントにも取り入れられてきているという。CRM(注)とはCrew Resource Managementの略語で、『安全運航を達成するために、操縦室内で得られる利用可能な全てのリソース(人、機器、情報など)を有効かつ効果的に活用し、チームメンバーの力を結集して、チームの業務遂行能力を向上させる』というものだ。そこで、今回のスペシャリストとして株式会社日本エアシステム(JAS)の現役の機長である福井邦彦氏にご登場願い「CRM」について紹介していただいた。福井氏は機長としてのお仕事に加え、乗員や新人の教育、CRMの開発にも携わっている。CRMの誕生から最新情報まで、実際の訓練内容、医療界へのアドバイスなどについてお話を伺った。

注:CRMのCはもともとはCockpitであったが、パイロット以外の乗務員も対象としCrewとしている。最近ではCompany、Continuousなどと変化させ様々な業種で応用されている。

【CRMの歴史】

-まず、CRMの誕生した背景から現在に至るまでを教えて下さい。

(誕生)

1950年代からの航空機事故の推移を見ると、1970年代にかけて事故件数は減りましたが、その後横ばい状態となりました。また、死者数にも減少傾向は見られません。機体が大きくなり1回の事故における死者数は増えているのです。航空機の改良、航法の改善、パイロットの技量向上などをもってしても事故は0にはできない。技術の進歩はある程度限界まできているのではないか。そこで人的要因(ヒューマンファクター)が注目されるようになりました。

昔のパイロットは上下関係が厳しく、下から上の人へ何かアドバイスをしても「わかってるよ」と言い放ったり、無視したりする雰囲気がありました。実際30年程前に、機長が他のクルーのアドバイスを無視したことによってジャンボ機同士が衝突し、500人以上の死者を出した事故がありました。そこで、他のメンバーのアドバイスに耳を傾けること、コックピット内の意思疎通をよくすること、といった人間関係の大切さが認められてきました。こうして、対人関係、協調性などを専門的技術として訓練で身につけようというコンセプトで、全世界的に「CRM訓練」のプログラムが研究され始めました。JASでも15年程前から研究を始め、10年前から訓練を開始しました。

(変化)

しかしその後、対人関係の問題だけでなく、人間の単純な思い違い、勘違いなどが要因となる事故も世界的に多発しました。そこで人間関係だけでなく、ヒューマンエラー対策へと変わってきました。エラーを個人の注意不足として片付けるのではなく、人間はエラーをする可能性があるものなのだという考えを前提に、エラーをしたりしそうになったらその芽を摘んで、事故が起きても致命的になる前に修復しようという考え方に変わってきたのです。CRMのコンセプトが「エラーマネジメント」になりました。

(現在)

さらに、人間のエラーの背後には「スレット(Threat)」が潜んでいると考え、エラーのもとになるスレットもマネジメントしようというものに発展してきました。

スレットとは一般的には脅威と訳されますが、CRMでは「エラーの可能性を増す要素」の事で、「業務量の多さ」「時間的重圧」「上司のプレッシャー」「疲労」「ストレス」などが挙げられます。パイロットにとってのスレットとしては、悪天候、飛行機の突然の故障、劣悪な空港施設、整備士のミス、乗客の乗り遅れなどがあります。医師で言えば、手術台の照明、医師の疲労、手術中における患者容態の急変などになるのでしょう。一般の場合で言えば、運転中後ろの車にあおられることや、怖い先輩の存在などもスレットになります。つまり、起こりそうなエラーという火種に対して、油を注ぐのがスレットと言えるでしょう。

ではこうしたスレットをなくせばいいかと言うと、そう単純ではありません。悪天候や患者の急変など、どうしてもなくせないスレットというものが存在するのです。そこで、これらをどうマネジメントしていくかということで「スレットマネジメント」が重要になってくるのです。

スレットをマネジメントするポイントは3つ。まず第1に「見つける」。スレットを認識し、自分に及ぼす影響を予測する。第2に「避ける」。第3に「スレットに囚われない」。突発的な事態に直面したら、優先順位付けや業務分担を行い、一点集中を避け、冷静に対処が出来るようにする。つまりスレットに左右されない自分をつくるのです。

また、自分が他人にとってのスレットになっていないか振り返ることも必要です。これらはどの業界でも適用できる考え方になっています。

以上、CRMのコンセプトは「対人マネジメント能力」→「エラーマネジメント」→「スレット&エラーマネジメント」と進化してきたのです。

【訓練方法】

-平成12年4月から、国内で運航を行う全ての航空会社のパイロットに対してCRMに関する訓練が義務付けられたと聞いていますが、訓練内容は航空会社全社で統一されているのですか?

義務化されたのは2年前ですが、日本の航空3社は10年前からCRM訓練を開始しています。また、大まかな内容は決まっていますが、具体的な訓練方法は各社様々です。

(CRMスキル)

-では、JASにおけるCRM訓練の具体的内容を教えて下さい。

以下に示す5分野15項目のCRMスキルはJASでまとめたものですが、アメリカの航空会社もほぼ同じ内容となっています。これら1つ1つの項目ごとに、訓練を行います。例えば我々チームで行動するパイロットに欠かせないBriefing。1日の仕事を始める前に、今日の計画、状況を伝え、全員が認識を一致させるようにします。医療界で言えば、日勤から夜勤の看護婦への引継ぎなどにあたるでしょう。

JAS CRM SKILLS / ELEMENTS   (CRMスキルの要素)

コミュニケーション 2way communication 適切な意思疎通
Assertion/Inquiry 安全への主張/質問
Briefing 計画と認識の共有
意思決定 Use of resources リソースの有効活用
Decision 適切な意思決定
Critique 決定と行動の振り返り
チームビルディング Climate チームの雰囲気作り
Leadership リーダーシップ/フォロワーシップの発揮
Conflict Resolution 建設的な対立の解消
状況認識 Vigilance 警戒心の維持
Monitor 状況のモニターと共有
Anticipation 状況からの予測
ワークロードの管理 Prioritize 優先順位付け
Distribute 業務の割り振り
Stress Management 個人とチームのストレス管理

(訓練のポイント)

-こうしたスキルを身に付けさせるために、どのような点にポイントを置いて訓練を行っているのですか?

私たちがある人を一人前にする、何か技術を身に付けさせるときの考えに「Student Oriented」というものがあります。

Student Oriented

この図に示したように70%までは押し付け教育で何とか出来ます。しかし、残りの30%は本人の意識が変わらないと行動に結びつきません。そこで技術を100%身に付ける手伝いをする。コーディネーターとして、「気づき」を与える調味料になるものをできるだけ作る。これが私たちの役目です。

現在、新人には4日間かけて研修を行っています。テキストを配布したり、ビデオで悪い例を見せたりすることに加え、本人の「意識変革」をポイントにした実習を行います。例えば、チームで道に迷った時、分かれ道に来てどの道を選ぶか、といった飛行機と無関係の様々なゲームもさせるのです。そして本音で議論をさせます。

現役のパイロットには、操縦席と全く同じ装置で外の画面も映し出される模擬飛行装置(シミュレータ)で訓練を行います。例えば「東京発札幌行」など通常運航を想定して行います。その間にいろいろな設定があり、例えば急病人が発生したり、悪天候になったり、エンジン火災が発生したりします。先程でてきた、エラーを引き起こす可能性を増す「スレット」をわざと与えるのです。もちろんパイロットに内容を事前に知らせてはいません。こうした状況をCRMの技術を駆使してチーム力で生還してもらうのです。

訓練の様子は全てビデオにとり、後で各自で見てもらいます。ビデオで自分の姿を見ると大抵はショックを受けます。「こんなに早口だったのか」「何を言っているのかわからない」「言い過ぎた」「何も言わず人のことばかり聞いていて優柔不断だった」等。そして、自分には意思決定能力やコミュニケーション能力といったCRMスキルがどれだけあるのか気づいてもらいます。ここで私たち教官が、何か言ってしまうと終わり。ついついアドバイスしたくなるところをぐっとこらえて黙っています。もちろん飛行技術の訓練時には教官として口出しをします。しかしCRM訓練の際は、教官としてではなくあくまでもコーディネーターという立場で、本人たちに「気づき」を与えるのが目標だからです。この「教えてはいけない」部分が苦労するところですね。

そしてこの一人一人の意識の変革が下図のようなプロセスを経て、組織・チームの変革へとつながると考えています。CRMスキルを身に付けた人が集まれば、よりエラーやミスに強いチームができ、安全になるというわけです。

チームパフォーマンス変革のプロセス

(訓練の成果)

-訓練による成果はどうなのでしょうか?

事故がこれくらい減ったという具体的な数字の記録はないのですが、メンバー間の権威のバランスは改善されてきたようです。コミュニケーションが取りやすい環境になってきました。以前は機長と他のメンバーの権威にかなりの差があったのですが、それが適度になってきたといえるでしょう。ただ、この差はある程度は必要なのです。なぜなら緊急事態に誰が指揮するのか明確にしておく必要があるからです。人によっては差が縮まり過ぎることもあるのですが、この場合は逆に少し差をつけてもらうようにしています。

訓練が始まって約10年。定着するのにはこれぐらいかかるのかもしれません。

【医療界と航空界】

-医療界に対してアドバイスなどありましたらお聞かせください。

ここにテキサス大学心理学のSexton教授とHelmreich教授による研究資料の一部があります。Helmreich教授は、CRMの権威としてアメリカのエアラインにも大きな影響を与えており、CRMの研究に関してはこのチームが最先端です。これによると、「部下が上司の決定に対し、疑問をはさむべきではない」という考え方に対して、「反対」する割合は、パイロットは97%と高いのに対し、外科医は55%と相対的に低いことがわかります。

「部下が上司の決定に対し、疑問をはさむべきではない」

(出典)Sexton JB et al : Error , stress ,and teamwork in medicine and aviation : cross sectional surveys,BMJ320:745-749,2000
(注)一部数値の合計が合わないデータがあったため、その部分は医療安全推進者ネットワーク事務局にて省略した。

アメリカでは既にこのように、パイロットと医師のチームワークに関する意識の差が報告されています。この結果はパイロットに対するCRM訓練の成果によるものかもしれません。Helmreich教授は、医療界にもCRMを取り入れることを提唱しています。

また、パイロットと医師にはたくさんの共通点があることから、JASは慶應大学医学部産婦人科学教室と共同でCRMビデオを作成しました。パイロットと医師の会話を軸に「スレット&エラーマネジメント」の考え方が紹介されています。興味のある方はJASのホームページ(http://www.jas.co.jp/crm/jascrmtopindex.htm)をご覧下さい。

-最後に、CRM訓練における今後の抱負をお聞かせください。

最新の「スレット&エラーマネジメント」に基づくCRM訓練を来月(2002年9月)から始めていく予定で現在準備を進めています。まず、全国の全乗員に3時間ぐらいずつかけてビデオを含めた説明会を行い、12月から定期訓練に取り入れていく予定です。ただ、1回ビデオを見せて説明しただけで効果があるとは思っていません。皆が行動に移せるようになるまで、コツコツ続けていくつもりです。何と言っても最大の目的は一人一人にCRMの意識を浸透させることですから。

今回、スライドや資料の提供などご協力いただいたCRM推進室の皆様

今回、スライドや資料の提供などご協力いただいたCRM推進室の皆様
左から橘氏、横井氏、福井氏、仲村氏

チーム間における適正な権威のバランスは医療界にとっても急がれる課題だ。JASでは訓練が定着し権威のバランスが改善されるのにおよそ10年かかったという。しかし、出遅れている医療界ではそんなに悠長に構えていられない。例えば、cockpit内でボイスレコーダーが大きな役割を果たしているのを見習って、手術室にもボイスレコーディングシステムを取り入れてはどうだろうか。航空界でcockpitから始まりcrewへと広がっていったように、医療界でもまずは手術室のリソースマネジメントから、やがては医療機関全体のリソースマネジメントへと広げていく考え方もある。

ひとたび事故を起こすと人命に関わるパイロットと医師。最近は負の部分ばかりが目立って報道されている。しかし、短時間で遠くに移動できるようになったり、健康で長生きできるようになったり、私たちの夢をかなえてくれる職業であることも両者の共通点だ。来年は、1903年にライト兄弟が人類初の動力飛行に成功してから100周年を迎える。医療関係者も、ともに「意識の変革」を続けて明るい未来につなげたいものである。

カテゴリ: 2002年8月16日
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