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医療過誤による経営的損失は約35億円 名大大学院医学系研究科が試算

名古屋大学大学院医学系研究科「医療の質・患者安全学講座」 星剛史氏

医療過誤が原因で発生した有害事象のために費やされる医療費は全国で年間約35億円と推計されることが名古屋大学大学院医学系研究科「医療の質・患者安全学講座」の調べで分かった。名大医学部附属病院の損失を踏まえて日本全体の損失をシミュレーションしたもので、その概要は2017年11月に開かれた『第12回医療の質・安全学会学術集会』でも明らかにされている。同病院副院長で医療の質・安全管理部教授の長尾能雅氏によれば、この種の試算が行われたのはこれまでに例がない。長尾氏と共にシミュレーションを試みた筆頭発表者の星剛史氏に試算の背景や目的、試算から浮き彫りにされた課題などを聞いた。

星剛史氏
星剛史氏

把握されていなかった病院の負担額

「医療過誤の原因を分析し、適切な対策を講じれば無駄な医療費を減らすことができます。そのためには、医療過誤による有害事象で生じた医療行為に費やされた医療費を把握する必要があるが、わが国ではこれまでその手がかりとなる数字が詳(つまび)らかではなかったのです」。

試算をまとめた星氏は今回の研究に携わった背景をそう明かす。星氏は名大大学院に在籍するかたわら、現職の医療専門経営コンサルタント業務に従事。MBA(経営学修士)と診療放射線技師の資格を持つ。同技師として名大病院で勤務した経験もある。

こうした経歴から「医療過誤による経営的損失」を切り口とする研究に取り組み、わが国における「医療の質・安全学」の第一人者である長尾教授に師事している。

『名古屋大学医学部附属病院の損失から日本全体の損失をシミュレーションした結果報告』と題された発表では、標題通り、同病院で発生した医療過誤による有害事象に対して新規に計上された医療費を検証。そのうえで、日本全国の急性期病院でどれくらいの医療費が推計されるのかを試算した。結論を先に示せば、比例計算を用いると、全国で約35億円の負担額が発生している可能性があるという。

この研究は、単なる事故件数の調査ではなく、そこから発生した医療費を明らかにすることで、それらが適切に負担されたものかどうかを検証しようとしていることに意義がある。要点は一大学病院の数字から全国の傾向を探り出そうとしたことだろう。また、訴訟にかかった費用や、賠償費用などは含めておらず、純粋に医療過誤の治療に必要となった医療費のみに焦点を当てている点が興味深い。

過去6年間の診療費用から算出

では、研究はどのような方法を用いて進められたのか。

「初めに決めたのは定量分析で客観的に検証することです。どちらかというと、医療安全の研究は定性的で、結果があいまいなものも多い。そこで、できるだけ医療安全の評価に定量的観点を持ち込みたかったのです」。星氏はコンサルタントとしての視点から、今回の研究の意味を説く。

研究の出発点となる診療費用負担金額と原因の算出にあたっては、名大病院の「医療の質・安全管理部」が管理している『入院、外来診療で発生した医療過誤の際、診療費用を病院負担とした事案』を抽出。対象期間は2011年4月から2017年3月までの6年間である。

こうして導き出したデータを基に、病床機能報告(平成28年度)の高度急性期+急性期病床数から比例計算し、医療事故による全国の診療費用負担額を試算した。

「名大病院では年間1万件以上のインシデントが報告されており、院内専従弁護士と共にレポート内容を点検しています。従って、事例の抽出精度や過誤の有無の判定精度は比較的高いと考えられます」(星氏)。

分析の対象となった診療費用負担(減免)事例は、医療の質・安全管理部に届けられた医療事故のうち、院内弁護士と共に「病院側の有責」と判断した事例である。

負担額については「患者が本来負担する必要がなかった診療費用」と定めた。DPC(包括医療費支払制度)の対象症例でも、過失により在院日数の延長が生じたと判断される場合は、延長分の入院費、差額ベッド代などを負担対象としている。薬剤の誤投与などは、投与した薬剤費用も対象とした。

グラフ(1)診療費用負担件数・金額(2011~16年度)
グラフ(1)診療費用負担件数・金額(2011~16年度)
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上位41件で負担額の9割を占める

対象期間中に届けられた診療費用負担件数は計396件であった。内訳は外来が272件、入院が124件である。その比率を見ると、外来が68.7%、入院が31.3%である。

一方、実際に支払われた金額は計3914万861円で、内訳は外来が177万7525円、入院が3736万3336円。比率は外来が4.5%、入院が95.5%を占めた。

割合だけで比較すると、件数は外来が7割近くであるのに対し、金額は入院が10割に迫る。つまり、医療事故に起因する診療費用負担件数の過半数は外来で生じるものの、支払われる金額は入院によるものが圧倒的に高いことが分かる。

視点を変えて、診療負担金額と累積金額割合の関係をパレート図で表すと、対象となった396件のうち、上位22件で全体の8割を占めた。上位41件では全体の9割に達する。

星氏は「全商品売り上げの8割は上位2割の商品で占められる『2:8の法則』というマーケティング理論に沿っていることが分かります」と医療分野でも経済学の経験則が見て取れることを示す。

従って『2:8の法則』に従えば、件数の上位2割を占める負担理由を改善すれば8割の効果があると読み替えることができる。

「医療事故をめぐる議論はこれまで、それらをいかに未然に防ぎ、いかに減らすかに照準が合わされてきました。一方、今回の研究は医療過誤による損失がいかに経営に響くかを具体的な金額で明らかにするという姿勢で臨みました。経営的な視点から言えば、医療過誤件数の削減もさることながら、それによる負担金額を削減することに意味があります。病院負担を減らすにはその前提となる医療過誤を減らす必要があります。そのためには、事故の内容を分析して対策を講じる必要がある。その足がかりとして試みたのが名大病院における分析でした」。星氏は今回の試算の狙いを改めて強調する。

グラフ(2)診療費用負担金額と累積金額割合
グラフ(2)診療費用負担金額と累積金額割合
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遺残、術中損傷、投薬過失が過半数

上位41件で「診療費用負担金額」の9割を占めることが明らかになった件数の内訳はどのようになっていたのか。調査によれば、41件のうち、遺残(12件)、術中損傷(7件)、投薬(7件)の3項目で過半数を占めた。

それぞれの詳細をみると、遺残はカテーテルなど血管内の遺残が7件、ガーゼが3件、その他が2件であった。術中損傷は穿孔・誤穿刺が6件、熱傷が1件。投薬は過剰投与、血管外漏出、使用薬剤違いが各2件ずつ、服薬反応による手術中止が1件であった。

これら3項目以降は、その他過失による追加手術、アレルギー患者へのアレルゲン投与、療養中の過誤、誤診、誤った機材の使用、部位違い、不適切な麻酔使用、採血時の過誤などの理由が続く。

『2:8の法則』ならぬ『1:9の法則』の実態について、星氏は「特に、遺残、投薬などに共通するのは本来、それぞれの措置や運用などについて定められたルールがあることです。にもかかわらず、事故が起きるのはそれらの徹底が不十分な部分があるからだと思います」と分析。こうした傾向が全国的なものであるなら、改善のための大きなヒントになると示唆する。

グラフ(3)診療負担金額:上位9割の負担理由
グラフ(3)診療負担金額:上位9割の負担理由
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発生場所の過半数は手術室が占める

「診療費用負担金額」の9割を占める上位41件は大別して4つの領域で発生している。その内訳は手術室が21件、放射線部が9件、病棟が6件、外来が5件である。ある程度予想されたことだが、発生場所の過半数を手術室が占めている。名大病院に限らず、大きく報道された過去の重大な医療事故も手術に伴って起きていることが多い。

こうしたことを踏まえ、名大病院では原因不明の事例などで速やかな情報収集と対処を要する場合を想定した手術室のインシデント報告基準を作成し、対応している。

【名大病院手術室インシデント報告基準】

1:
術中死亡、予期しない心停止、重篤な中枢神経系(脳・脊髄)合併症発生
2:
予期しない再手術やICUへの入室
3:
誤認手術(患者・手術部位・左右・術式)
4:
予定していない臓器の切除や修復
5:
大量出血((1)循環血液量相当量以上(2)迅速な対応を要した術中出血(3)準備血に比しMAP6単位〈小児は2単位〉以上の輸血、いずれかの場合)
6:
手術器械・ガーゼ・針等の体内遺残やカウント不一致、紛失
7:
手術時間の予期しない延長(2時間以上)
8:
手術同意書の得られていない手術
9:
術中の手術機械の破損・不具合
10:
切除組織・標本の紛失、取り違え
11:
麻酔に伴う有害事象
12:
薬剤投与や輸血におけるエラー(薬剤漏出等含む)
13:
神経、歯牙、皮膚損傷等患者におきた傷害
14:
術野や清潔区域の不慮の汚染(ハエの飛来、汗や毛髪落下など)
15:
職員のdisruptive behavior(他者を脅かすような破壊的行為)
16:
職員の感染・針刺し・血液暴露等
17:
その他、改善への提案、警鐘に値する事象等

件数との関連は低い年間負担金額

名大病院では「手術室インシデント報告基準」の運用を始めた2013年以降、減免の件数は増えているが、年間負担金額は必ずしも連動していない。負担金額は案件によって幅があるからだ。例えば、件数が少なくても一件当たりの金額が高額であれば総額は増え、件数が多くても一件当たりの金額が低額であれば総額は減る。従って、年間診療費用負担の件数と金額との関連は低い。

以上のような名大病院の実態を下敷きとして、病床機能報告における高度急性期+急性期機能病床数と名大病院の病床数との比例計算により「全国で年間約35億円の負担額が発生している可能性がある」という推計を星氏らは導いた(グラフ(5)参照)。

今回の試算は長尾氏のコメントにもあるように、これまで同様の手法や算出方法による報告がないという点で新規性がある。また、発生件数の時系列的な調査や発生原因の分析ではなく、純粋な診療費用負担金額に踏み込んだ分析を試みている点に独自性があるだろう。根底には「全国の医療機関における減免対象事案の発生状況や、それらが適切に負担されているかどうかの現状は定かではない」という星氏の経営コンサルタントとしての感性が潜む。経営的な損失を最小化するためには医療事故の削減に取り組むことが有効であるとする考えがある。

「医療過誤に伴う診療費の発生は病院経営上、できる限り減少させることが望ましく、事故を未然に防ぐための患者安全への対策が求められます。社会保障費の適正化の観点からも、トップが経営感覚を持って、医療事故を減らすための方策を継続的に講じていくことが理想でしょう」と星氏は研究成果の今後の活用に期待する。

医療安全に経営的視点から迫り、トップの意識を「加算」から「損失」に仕向けようとしている点で、この研究は意義深い。

グラフ(4)年間診療費用負担件数・金額
グラフ(4)年間診療費用負担件数・金額
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グラフ(5)全国の診療費用負担金額推計
グラフ(5)全国の診療費用負担金額推計
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企画・取材:伊藤公一

カテゴリ: タグ:,, 2018年3月30日
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