医療法人徳洲会 八尾徳洲会総合病院
医療安全管理部 部長/徳洲会グループ本部 医療安全部門 顧問
近畿大学医学部・近畿大学病院 客員教授
辰巳陽一氏
医療安全は、事故を減らし、患者を守るために生まれた活動である。しかし、その取り組みがルールの追加や原因追及に偏ると、現場にとっては「責められる」「仕事を増やされる」活動として受け止められることがある。医療には不確実性があり、危険を完全になくすことはできない。それでも医療者の営みは続いていく。では、現場を疲弊させず、安全をより確かなものにしていくには、どのような医療安全が必要なのだろうか。辰巳陽一氏は、2026年4月18、19の両日、大阪府立国際会議場で開かれた『第12回日本医療安全学会学術総会』の大会長講演「前向き医療安全のススメ」で、失敗を責めるだけではなく、日常の成功や現場の適応にも目を向ける医療安全のあり方を提案した。
新たな視点「前向き医療安全」を提唱
辰巳氏は冒頭、本総会ポスターのメインビジュアルに葛飾北斎の代表作『富嶽三十六景』の「甲州石班澤(こうしゅうかじかざわ)」を採用した意図を紹介している。遠景の富士山、中景のうねる波、近景の断崖上で働く漁師はそれぞれ、厳然と存在する目標、なくなることのない環境が生み出す危険、その間で続く人の営みをなぞらえているとしたうえで「これは単なる風景画ではなく、不確実で危険で苛酷な環境の中で脈々と続く人の営みを描いている」。そして「不確実で苛酷な環境」は医療安全を巡る現在の状況の例えであり、ここで漁師が魚を逃がしたり、海に落ちたりしたとして、果たして責められるべきものなのだろうかと問いかけている。
辰巳氏は連綿と伝えられてきたこれまでの医療安全活動が「事故に潜むエラーを探し出して、次からは犯さないように命令をする、ともすれば『責める文化』の香りのする『後ろ向き』といえるものであった」としたうえで「近年はその概念が変わろうとしているはず」と指摘し「ノンテクニカルスキル、レジリエンス、心理的安全性、ポジティブ・アプローチなどという概念とともに、エラーの存在を認める、エラーから学ぶ、安全を維持するために微調整することの重要性が謳(うた)われている」と述べた。
そして、医療安全は決して虐めることや他人の尻拭いが目的ではなく、もっと前向きなものとして捉えるための背景を考えてみたい」と講演の狙いを語った。
「やめること」も医療の質に含まれる
辰巳氏は医療の質と業務との関係について「従来の活動が『不足を埋める』足し算型で発展してきたため『やめる・減らす』といった対応は後ろ向き・リスクと捉えられやすい」と認識。「本質的には、やめることも医療の質に含まれているはず」との見方から
- Value-based healthcare(価値に基づく医療)⇒価値の低い医療や不必要な検査・介入を減らす/やめる
- Choosing Wisely(「やらなくていい医療」を明示する運動)⇒"不要な対策をやめること=質文化"の明文化
- Lean/無駄の排除(トヨタ生産方式由来)⇒価値を生まない活動=無駄を削り、価値を生む活動に集中
――などが該当するのではないかと述べている。
また、不要な対策を増やし続けること自体が負担増やエラー誘発、形骸化、思考停止のリスクとなる点にも懸念を示した。
上記を踏まえて、辰巳氏は医療安全活動に取り組む流れを次のように示した。
- 医療事故の原因を究明する
- 医療事故にならない理由を究明する
- 医療事故を回避する方策を検証する
- 医療行為が成功する方策を検証する
- 医療現場に、これらの方策を強要する
- 医療現場に、これらの方策をやりたくさせる
- 医療現場による方策の実効性を確認する
- 方策の妥当性を再検討する
- 方策を再度実施する、方策を中止する
- 患者・家族の視点を組み込む
- システムとして学習する(組織学習)
(1)~(4)は知の生成、(5)~(6)は実装、(7)~(9)は改善サイクル、(10)~(11)は患者参加・患者経験値――とまとめることができる。
辰巳氏は「患者は、単なる『安全の受益者』ではなく転倒予防や服薬、ICなどのすべてに関与する『共創者』であり、今後の医療安全では必須項目になる」と強調。上記(1)~(9)が"個別改善"に寄っていることから「個別改善で終わらせぬデータ化と共有、組織知化を進め"学習する組織"の視点が必要」と説いた。
医療には100%の安全はないという観点
辰巳氏は本総会の開催テーマのキーワードでもある「前向き医療安全」を
- 「医療安全と現場との前向きな関係構築=現場を責めないという意味の前向き」
- 「医療安全の前向きな運用=過去を責めずに学び、活かすという意味の前向き」
- 「医療安全の前向きな概念の習得=医療安全を"面白い学問"として捉えるという意味の前向き(ただし、面白いは"Funny"ではなく"Interesting"である)」
という3階層に分けて「医療安全は患者との関わりや多様な学問(哲学、心理学、組織構造学など)のエッセンスが詰まった分野であり、単に責任を追及するだけでは不十分で、相手が行動したくなるように働きかける視点が重要」と訴えた。
3階層の第一の「医療安全と現場の前向きな関係構築」について辰巳氏は「薬には効果もあれば副作用もある。手術にも合併症という、期待に反する事故が一定の確率で発生する。医療従事者も人であり、勘違いし、やり間違え、忘れる。時に医療のシステムそのものが原因となって生じる事故もある」として、医療には100%の安全はなく「人は間違いを犯すもの」という観点からシステムの改善に取り組んだり、失敗(ヒューマンエラー)への対策を進めたりする必要があるとの見方を示した。
そして「一部の医療安全管理者は『結果が悪ければ犯罪である』という、責める信念を持っているが、この医療安全の"錦の御旗"の下に責める感覚は避ける必要がある」。責めた結果、医療者は医療安全に対して「医療事故報告(インシデント・アクシデント報告)はペナルティだから報告したくない、関わりたくない」という捉え方をしがちと辰巳氏は説明。実害を生み出しかけたインシデントが責められ、実害を未然に防いだ事例は褒められると「責められたと思った医療スタッフはたいていインシデントを出すのをやめ、医療安全が嫌いになる」というメカニズムに言及した。
辰巳氏は「医療安全が重要であることに異論はないものの、安全担当者たちに『安全規則を定め、現場に励行させればよい』との考えが医療安全・病院幹部に蔓延している」と現状を分析。その一方で「安全規則が生産性を阻害することがあり、時には別のリスク(時間的・心理的)を生むこともある。状況が変化する現場では規則を守れない場合も起きるため、さらに安全規則が増える」と現場で起こり得る実態に触れた。
一般的に規則が増えるほど、守れないルールを押し付けられるほど違反数は増加する。その結果、ますます職場での違反が横行する。つまり、医療安全が違反を増やしていると辰巳氏は警鐘を鳴らす。
ポジティブ・インシデント報告を推奨
3階層の第二の「医療安全の前向きな運用」で辰巳氏は「安全には『Safty-Ⅰ』と『Safty-Ⅱ+レジリエンス』という2つの定義がある」として「あえて医療事故の良い点に目を向けるポジティブ・インシデント報告」を推奨した。
Safty-Ⅰは事故などの悪い点を見つけ、分析し、改善策を講じるアプローチ。従来の医療事故調査に近い手法で危険を減らすのに役立つ。Safty-Ⅱは「日常業務がなぜうまくいっているのか」に着目し、その成功要因を分析・活用するアプローチで、現場スタッフのレジリエンス(微調整力)を重視する。
レジリエンスは状況の変化に対応し、うまく業務を遂行する能力で「学習する」「観察する」「予見する」「対応する」という4つの力で構成される。手術時に術者が経験に基づき、リスクを摘む見えにくい微調整などがこれにあたる。
ポジティブ・インシデント報告では、未遂事故(インシデント)がなぜ未遂で済んだのか、未然に防げた理由(内因、外因、ソフト、ハード)を添える。事故(アクシデント)がなぜ、そのレベルで済んだのかについても、その理由があれば添える。事故の中に、今後活かせるポイント(学習・観察・対応・予見)があれば、取り上げて共有する。
つまり「動的なレジリエンスのコツの瞬間の動きを切り取って共有すること」の大切さを辰巳氏は唱える。
また、改善に向けた前向きな取り組みとして米国のMarshall Goldsmith氏が提唱する「FeedbackからFeedforwardへ」というチーム力向上ためのアプローチ法を紹介した。
その要点は「過去は変わらないが、未来は変えることができる。改善方法を身に付ければチャンスはまた与えられる」というもので「"正しい"を学ぶほうが"悪い"を学ぶよりもより生産的」で「過去には触れず、将来のポジティブで前向きなことを話題にする」「行為に注目し、個人には注目しない」というスタンスである。
その延長線上で辰巳氏は「原因追及ではなく、うまくいったことに着目する」探求アプローチの考え方に触れ「なぜ、そのエラーを発見できたのか」といった成功側面に注目し、発見者を称賛して知見を共有することの大切さを力説した。
医療組織にも「動的平衡」のスタンスを
冒頭で紹介した本総会のポスターには「前向き医療安全のススメ!」というテーマの下に「案外おもしろいよ! 医療安全」というメッセージが吹き出しで添えられている。
「この際の面白さはFunnyでもDifficultでもなく、Interesting」と辰巳氏は言い切る。学問としての医療安全を巡ってはこれまで「心理的安全性/多様性(DEI)」「Safety-Ⅰ/Safty-Ⅱ(レジリエンス)」「ノンテクニカルスキル」「適応課題/技術課題」など数多くの概念が示され、論議されてきた。
それらを踏まえて、辰巳氏は、組織の機能を維持するための概念として「動的平衡/ミニマリズム」の考え方を紹介した。3階層の第三の「医療安全の前向きな概念の習得」の実践編でもある。
動的平衡は自然界(生物学・化学)において重要な概念とされ、生物が分解と生成を繰り返し、変化に適応しながら一貫性を保つ仕組みである。「スタッフが入れ替わる医療組織も、変化に対応し全体として機能する動的平衡を保つ必要がある」と辰巳氏は言う。
辰巳氏は医療安全における動的平衡を理解するための要素として、再構築、調整、補完の3つを挙げる。再構築は「継続的な再学習」、調整は「共通言語での微調整」、補完は「多様性を認め、助け合う関係」などと言い換えることができる。
なぜ事故に至らなかったか、被害を最小限に食い止められた要因を報告・共有する「ポジティブ・インシデント報告」、過去の失敗に触れず、これからどうするかという未来志向で建設的に話し合う「Feedforward」、エラーの原因追及だけでなく、なぜ発見できたかという成功側面に着目する「探求アプローチ」などはいずれも旧来の医療安全対策から一歩踏み出した今日的な手法といえるだろう。
辰巳氏は「医療安全におけるミニマリズムは現場の適応力を損なわない形で業務を再設計する視点として有用である」と断言。
「すべてを守ろうとせず、守るべきものを動的に選び直す」
「変化する状況に応じてマニュアルをアップデートする文化」
「すべてを記録するのではなく、意味あるものだけ記録し、深く共有する意識」
「インシデント報告のミニマル化(件数減ではなく質の重点化)と動的学習」
――などと、動的平衡を維持するためのミニマリズムの可能性を示した。
「単なる風景画ではなく、不確実で危険で苛酷な環境の中での人の営みを描いている」という「甲州石班澤」の絵解きからから始まった講演は「波は消えない、それでも営みは続く」という力強いメッセージで締めくくられた。
企画・取材:伊藤公一














